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元々鉄道ブログですが、福岡県古賀市、新宮町、福津市の情報に移行、その後福岡市近郊の情報に寄り道した後、心理学と障害者福祉に関心を移しています。
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 元々は鉄道ブログです。
 と言いつつ、福岡市北郊にある新宮、古賀、福津の情報をメインに書いていました。
 筆者転居のため、最近は福岡市内の情報をメインに書いています。
 自分の興味が向いたものを、自分勝手に調査しています。
 今のところ、基本的に毎週日曜日に更新しています。
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服部龍二「広田弘毅」と城山三郎「落日燃ゆ」を読む
 何かする前にあれこれ考えていたら、決断が遅くなります。
 現代はスピードが求められる時代。
 走りながら考え、走りながら問題点を解決すればいいってのが流儀のようです。

 でも、やっぱり思うのです。
 世の中には色々な人がいて、色々な状況があって、どこから走り出せばいいのか決めるのだって一苦労です。
 結果として、愚図とか言われる人間がここに存在します。

<広田弘毅の本を2冊読みました>

 さて、我らの郷土の先人に広田弘毅(1878.2.14-1948.12.23,参照)という人がいます。
 麻生太郎氏が総理大臣になるまでの長きに渡り、福岡県が生んだ唯一の内閣総理大臣でした。
 全国的には、極東国際軍事裁判(東京裁判)で文官のA級戦犯として唯一の絞首刑になった「悲劇の宰相」として知られます。

 数年前、広田弘毅についての本を2冊読みました(参照)。
 読んだのは、その広田が本当に「悲劇の宰相」なのか問うた服部龍二広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像と、広田が「悲劇の宰相」であるという印象を不動のものにしたとされる城山三郎落日燃ゆです。
 真っ向から対立しているように見える2冊ですが、実際はあまり相違点はありません。
 併せて読むことで、色々勉強になりました。

<言い訳しなかったわけではない>

 広田弘毅の一般的なイメージとして、いいわけをせずに絞首刑になったというもの。
 そのものズバリで、北川晃二 黙してゆかむ―広田弘毅の生涯という本も出ているようです。

 これは、公判で証言台に立たなかったことからついたイメージのようです。
 城山三郎はそのイメージで書いているようです。
 しかし、記録を元に、広田弘毅は尋問に対しては時に多弁に答えていたことを服部龍三は明らかにしています。

 広田弘毅が公判で証言台に立たなかったのは事実のようです。
 しかし、服部龍三によると。元々被告が証言台に立てるのは一回だけという制限があったそうです。
 証言台に立たなかったのは広田弘毅以外にもいたのだそうです。
 広田弘毅の他に証言台に立たなかったのは、土肥原賢二、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹、木村兵太郎、佐藤賢了、重光葵、梅津美治郎の8人です。

 また、広田弘毅に自責の念があった事に関しては両者の見解は一致しているようです。
 広田弘毅は、重光葵、平沼騏一郎、土肥原賢二と共に、冒頭陳謝に参加しませんでした。
 その際、「自分はこれらの戦争の防止に全努力をあぐべきであったが、それを果たしえなかった、従って重大責任を感じているので今日これを肯定せんとする陳述には参加しえない。」と広田弘毅が語ったと服部龍三は紹介しています。
 また、裁判の記録を元に服部龍三は、途中で多少の気持ちの揺れがあった事と、絞首刑までは想定していなかったであろう事を明らかにしています。

<A級とは上級ではない>

 僕たちは東京裁判の前提条件から誤解しているんだなと、服部龍三を読んでまず思いました。

 大体、A級戦犯ってのも僕は誤解していました。
 A級小倉劇場(参照)とかありますが、僕にとってA級とは一級とか特級とかと同じような感じです。
 でも、極東国際軍事裁判所条例(原本邦訳邦訳)にはこうあるのです。


第五条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄

本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。

左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス。

(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。

(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。

(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。
(極東国際軍事裁判所条例 )


 この(イ)がA級。(ロ)がB級。(ハ)がC級ということのようです。

 元になったCharter of the International Military Tribunal
でもa項b項c項という感じで書かれています。

 どうも英語では「class-A war criminal」と言うらしく、ついclassを級と訳した(参照)っぽいです。
 ここでの級とは、等級の級ではなく、学級の級なんですね。
 訴追された罪状が、どの種類なのかという呼び名に過ぎないようです。

<広田弘毅の訴追理由>

 そういうことなので、広田弘毅の訴因も第一類「平和に対する罪(訴因1~36)」、第二類「殺人(訴因37~52)」、第三類「通例の戦争犯罪および人道に対する罪(訴因53~55)」の55項目のうちの48項目と多岐に渡っています。

 東京裁判全体として、平和に対する罪の訴追理由のうち1、29、31、32、33、35、36だけが有罪と認められているようです。
 殺人に関する訴追理由のうち認められたものはなく、通例の戦争犯罪および人道に対する罪については54、55だけ認められたようです。

 そして、広田弘毅について、最終的に認められたのはそのうち3つのみ。
 その3つとは、侵略戦争の共同謀議(訴因1)と、満州事変以後の侵略戦争(訴因27)と、戦争法規遵守義務の無視(訴因55)だそうです。
 訴因55については、「南京事件における犯罪的な過失」なのだそうです。
 そして、絞首刑になった最大の理由がそれだったと服部龍三は明らかにしています。

<国民的な減刑嘆願なのか?>

 この絞首刑について、国民的な減刑嘆願が起こったとされています。
 城山三郎もそのように書いていました。

 しかし、調べてみると地域的な偏りがあったようです。
 特に多かったのが郷里である福岡での7万2千と、東京での3万人(参照)とされているようです。
 地元では今でも同情論が強い(参照)ようです。

 個人的な見解ですが、減刑嘆願の動機は、石工の倅から総理になった広田弘毅へのシンパシーが一番の理由なのではないでしょうか。

 立身出世を考えていなかった人物として、城山三郎は広田弘毅を描いています。
 それに対して服部龍三は、政談を好む広田弘毅の政客としての一面を明らかにし、所謂「革新派」と広田弘毅との関係を指摘しています。

 地方の石工の倅であるという非主流派の反骨心というか僻みのようなものの表れのような気が、僕は個人的にはしました。
 それが、「革新派」への共鳴に結び付いたのではないかなあと妄想しています。


<広田弘毅の責任>

 二冊の最大の違いは、広田弘毅の責任についてでしょうか。
 両者とも広田弘毅が総理大臣になった際に軍部の要求によって軍部大臣現役武官制を復活させたと書いています。

 その代償として「それまで、陸軍大臣候補者は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監という陸軍三長官の一致して推薦した者に限るという内規があったのをはずさせ、現役将官の中から総理が自由に選任できる」ようにさせたと城山三郎は書いて正当化しています。

 対する服部龍三は、その条件はうやむやになってしまったことを指摘しています。
 ただ、広田内閣の組閣に関しても陸軍の介入があったため、現役武官制の復活を過大に評価すべきでないとしています。

 城山三郎も服部龍三も、広田弘毅が外務大臣時代の1935年に駐華公使館を駐華大使館に格上げするまではあまり大きな差異はないように思えました。

 この昇格は、中国側から大きく歓迎されました。
 服部龍三は、この格上げが軍部の反発を招き、陸軍出先の華北分離工作に繋がったと指摘しています。
 軍部の反発を招いたことにより、広田弘毅はその後政策に軍部の意向を反映せざるを得なくなってしまったというストーリーのようです。

 例えば、満州事変後の対中交渉において、陸軍が納得しやすいよう、要求ばかり盛り込んだ広田三原則が作られました。
 それによって対中交渉は行き詰まり、中国側の親日派の衰退に繋がり、ますます事態を深刻化させたと服部龍三は指摘しています。

 これに対し、城山三郎はすべて軍部の責任としています。
 広田三原則は「穏健」、「軍の行動に枠をはめる」目的であったと擁護し、中国側にも理解されていたと書いていて、かなり評価が異なります。

 広田が行った外交努力は、日本の軍事的野心を隠すためのものであったと東京裁判の検察官は断罪していました。
 それに比べれば、城山三郎と服部龍三の違いは大きくありません。

 大きな違いは、広田弘毅が軍部相手にどれだけ抗せたかという所です。
 軍部に抗するのは難しいというのが城山三郎のスタンスですが、広田の部下の外務官僚や広田以外の外務大臣の言動から、服部龍三は広田の無作為を明らかにしています。

<玄洋社の評価>

 両者の違いのひとつは、広田弘毅が玄洋社社員であったか否かです。
 城山三郎は社員ではなかったと書いています。
 一方の服部龍三は、会報等を分析し、社員であったと言えると明らかにしています。

 しかし、服部龍三は、広田弘毅が玄洋社的なアジア主義一辺倒とは指摘していません。
 特定の主義や理念によるものではないとしているようです。

<国民に対する罪>

 東京裁判は勝者の裁判であるとの批判があります。
 確かにそれはその通りです。

 勝ち目のない戦争を始め、それを長引かせ、国民の生命や財産を犠牲にした国策の責任を、東京裁判では問われていません。
 また、戦時国際法の知識を兵士たちに伝えるのを怠り、戦争犯罪者になるリスクを作った責任も、東京裁判では直接は問われていません。
 日本国民に対する罪は、問われてないのです。

 確かにこの頃は、政治家と国民が互いに過激さを高めあっていくポピュリズム(関連)の時代でした。
 国民が無垢な存在だと言うことはできません。

 アメリカ戦略爆撃調査団聴取書を読む会編 福岡空襲とアメリカ軍調査―アメリカ戦略爆撃調査団聴取書を読む を読んでみると、戦時中に日本の敗北を考えたことがなかったという回答の多さに驚かされます。
 反面、沖縄戦や原爆投下や空襲や南洋での敗北などを通じて敗北を確信していた人の方が多く、自由に意見を言い合えなかった弊害なのではないかと思います。

 それならば、為政者のどこが悪かったのか。国民のどこが悪かったのかをきちんと評価しないといけないのでしょう。

 ここは、敗者の裁判も行ってはどうでしょうか?
 あの敗戦の責任は、誰がとるべきなのか。
 評価は歴史がすると遺族はおっしゃっているようです(参照)。



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