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元々鉄道ブログですが、福岡県古賀市、新宮町、福津市の情報に移行、その後福岡市近郊の情報に寄り道した後、心理学と障害者福祉に関心を移しています。
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電灯事業から見た西日本鉄道の成立(2)~九州水力電気編
 前回、福博電気軌道(→博多電燈鉄道→九州電燈鉄道→東邦電力)について見てみました(関連)。
 一方で、福岡市内電車には地元系の会社もありました。

 明治末期、大阪資本の福博電気軌道が九州沖縄八県連合勧業共進会に間に合わせるように、福岡市内の路面電車敷設工事を進めている中、それとは別に地元の資本家による路面電車の敷設計画もあがるようになった。
 その始まりは、吉塚 - 千代町 - 築港 - 橋口間において馬車鉄道の建設を行おうとしていた博多馬車鉄道の特許を、呉服商の渡辺與八郎(渡辺通りの名の由来にもなっている)が4000万円で買収し、1910年(明治43年)1月6日に博多電気軌道として会社を設立させたことである。
(参照)


<博多電気軌道の成立>

 渡辺與八郎は、前回も福博電気軌道に若干出資したことを書いていましたね。

 1910(明治43)年1月、渡辺與八郎は博多馬車軌道を買収、新設の博多周辺循環道路に電車を通す計画を実行に移します。国鉄博多駅と博多築港を結び、天神や柳橋、住吉神社や千代町などを一周する本線(のち西鉄福岡市内線循環線)と、妙見から吉塚駅前に至る支線(同吉塚線・貨物線の築港線)です。

 計画線上で唯一用地買収が困難と思われていた天神町・平岡良介邸(父・平岡浩太郎の遺した広大な邸宅)も、與八郎の説得により土地出資という形で解決。同年2月には平岡や河内卯兵衛(のち福岡市長)ら地元出資者で創立委員会を立ち上げ、周囲に押されて與八郎は委員長となります。

 「博多電気軌道」への商号変更は3月4日付で許可され、太田清蔵や麻生太吉ら福博財界人をはじめ、川崎芳太郎や小曽根喜一郎など九州電気軌道の発起人にも名を連ねる関西の事業家が加わり、3月31日に平岡良介を社長として会社設立に至りました。福博電気軌道が行政と中央資本の協力によって成立したのに対し、博多電気軌道は地元財界と中央資本の協力で成立したものでした。

 設立後の博多電気軌道は、路線の開業を待たずに積極的な事業拡張を進めました。1910(明治43)年7月に筑紫水力電気を買収して電気事業に進出し、同年10月には糸島ー前原間を開業したばかりの北筑軌道を買収します。

 当時の計画路線図では、吉塚から箱崎浜・箱崎水族館に至る支線延長に加え、当時の海岸部から福岡城址の南北を平行する路線(現在の那の津通りの一部、現在のけやき通りの一部)、赤坂門から本線に至る路線(現在の大正通り、城南線の一部)がみえ、実現した構想が與八郎の計画のほんの一端だったこともわかります。北筑軌道の唐津までの延伸や、市内線軌道の太宰府・二日市温泉への延伸も計画されていました。

 1911(明治44)年10月2日、本線(循環線)の西半分にあたる博多駅前ー住吉神社前ー天神町ー須崎土手ー取引所前間が開通。11月15日には取引所前ー築港ー豊平間が開業して循環線の4分の3を形成しました。1912(明治45)年1月には吉塚駅前・三角までの支線も開業。7月1日には国鉄吉塚駅ー博多築港間における貨物輸送も開始しますが、その後は用地買収が難航し、大学通ー博多駅前間が開業し循環線が全通したのは、九州水力電気との合併後の1914(大正3)年4月22日でした。
(参照)

 「この循環路線電車計画については,貫線である福博電気軌道のような長距離の乗客も見込めず収支も償えないとして,計画の主唱者であった渡辺興八郎の弟で福博電軌の重役であった渡辺綱三郎や同じく福博電軌重役で博多電灯社長の山口恒三郎らが渡辺輿八郎に計画を中止して,むしろ,福博電気軌道を買収することを忠告した。これに対して福沢桃介も100万円くらいなら買収に応じてもいいという意向を示し,渡辺輿八郎もこの意見に従おうとしたが,他の発起者らは『他郷の人々に利益を収めらるるのは福岡市の為にならないとの見地から遂に会社を設立した』という経緯があったとされている(参照)」ということで、渡辺氏自身は前回出た福博電気軌道を買収することも考えていた様です。

<九州水力電気の成立>

 さて、前回書いた通り、1900年代初頭には長距離送電が実用化されています(関連)。
 そういった背景から、筑後川などで水力発電をして、北九州地域に送電する(参照)計画が持ち上がります。
 そして、「筑後川 山国川にも水利権を求めて県内外から4件の出願があり激しく争ったが、九州水力電気の設立に落ち着いた(参照)」とのことです(九水・関連関連)。

 「九州水力電気は、筑後川や山国川上流域の九州山地での水力発電事業を構想した和田および大田黒重五郎(芝浦製作所専務取締役)と中野徳次郎(筑豊の炭鉱業者)の計画を統合して、1911(明治44)年4 月に資本金800 万円で設立された。初代社長に和田の盟友の浜口吉右衛門が就任し、和田は相談役に就いた。1913 年に大分県日田郡中川村(現・日田市)に出力1 万2,000kW の女子畑発電所が完成し、当時の九州で最大の発電能力であった。九州水力電気は、1914 年に八幡製鉄所と電力供給契約を締結し、筑豊炭田や北九州工業地帯(若松・戸畑地区)の大規模工場への電力供給を開始した。 (参照)」とのことです。

 ちなみに、大田黒重五郎は「箱根水力電気及び九州水力電気及び四国水力電気創業者、『浮雲』のモデル(参照)」だそうです。

1906年、箱根水力電気会社(後に横浜共同電燈会社(東京電力の前身1つ)に吸収合併)を創設。以後、九州水力電気(九州電力や西鉄グループの前身の1つ)や四国水力電気(四国電力の前身の1つ)など各地で水力電気会社を設立。九州電気軌道社長等も歴任。
大田黒重五郎 - Wikipedia

 と紹介されています。

 九州水力電気は、太田黒氏をはじめとする中央の財界人だけではなく地元の財界人も参加していました。
 麻生太吉もその一人です。

 明治43(1910)年に嘉穂電灯を興した太吉は、以降も積極的に電気事業に参画していきます。明治44(1911)年には、九州水力電気の設立に参画。日本最大の重工業地帯であった北九州地区を中心に電気事業を推し進めていくことになったのです。
麻生の足跡-地域とともに- 九州の電気事業(後編)

 ちなみに麻生太吉の略歴は、以下の通りです。

1891年 - 4月、筑豊興業鉄道株式会社常議員就任。
1897年 - 4月、九州鉄道株式会社取締役就任。
1906年 - 7月、南満州鉄道株式会社設立委員。
1908年 - 10月、嘉穂電燈株式会社取締役社長。
1913年 - 7月、九州水力電気株式会社取締役
1924年 - 6月、杖立川水力電気株式会社社長、
1928年 - 11月、筑後電気株式会社社長就任
1930年 - 4月、延岡電気株式会社社長。10月、九州電気軌道株式会社取締役。12月、昭和電燈株式会社社長。
1931年 - 1月、九州電気工業株式会社社長。6月、小国水力電気株式会社社長。
1933年 - 11月、九州産業鉄道、九州産業合併。セメント製造業に参入し、産業セメント鉄道株式会社設立。
麻生太吉 - Wikipedia

 確かに電力業界に興味関心のある方のようですね。

 九州水力電気は、麻生氏だけでなく筑豊御三家のもう一人である安川家とも関係があったようで、「どこからも注文がくるはずがない(笑)。それで当初は明治鉱業の機械をつくってたべていた(笑)。そのうち九州水力電気(九州電力の前身)の柱上変圧器を一手に引き受けるようになって、息をつきました。(参照)」と、設立当初の安川電機は九州水力電気の下請を行っていたようです。

 例の太田清蔵についても調べてみました。
 迎由理男 太田清蔵の企業者活動 近代福岡博多の企業者活動 2007によると、太田清蔵が経営する徴兵保険株式会社が、1925(大正14)年度の時点で九州水力電気の株式1万6344株を保有していたようです。

 ずいぶん長い間、九州水力電気は僕にとって謎の会社でした。
 そもそも、本社がどこかすらわかりません。
 例えば、「福岡に本社のある九州水力電気株式会社(九州水電)(参照)」と書かれたり、「当時、九州水力電気の本社は東京府麹町区永楽町 1 丁目にあった(参照)」と書かれたり、「その九州電気界の一方の雄たる九州水力電気株式会社は本社を東京市麹町区丸の内三の二に、出張所を福岡市大字庄三十五番地に有し(参照)」と書かれたりしています。

 福岡市大字庄というのは、恐らく現在の早良区室見周辺だと思われます。
 ここには、1941年に廃止された(参照)筑肥線筑前庄駅もありました。
 元衆議院議員で太田清蔵の孫である太田誠一の事務所もありました。
 関係あるかどうかわかりませんが、福岡市早良区室見2-8-10には九州電力室見寮があり(参照)、福岡市早良区室見5-11-27には九電室見アパート64棟があるようです(参照)。

 よく調べてみると、どうやら東京にあった本社を途中で福岡に移したようですね。
 「こうしたなかで、1928(昭和3)年に第5代社長に麻生太吉(炭鉱業)が就任した。麻生は33年に死去するまで、九州電気軌道や杖立川水力電気といったライバル企業の合併・買収、延岡電気の統合と神都電気興業の分離による宮崎県への進出、水力発電の能力向上や火力発電の併用等を推進した。一方で経費節減や負債の圧縮をはじめ電気鉄道や電気化学などの関連事業の譲渡ないし分離にも着手し、経営の再構築を旺盛に主導していった。この間の31年には本社を東京府麹町区丸ノ内3丁目(29 年より)から福岡出張所のある福岡市大字庄35 番地へ移し、地域への密着をより強化した。東京には出張所を新設している。(参照)」


<九州水力電気が博多電気軌道を吸収>

 この九州水力電気が前回取り上げた九州電燈鉄道と合併する話が持ち上がったそうです。
 ところがこれはご破算になり、九州水力電気は博多電気軌道と合併することになります(参照参照参照)(参照)。

 当時の九州北部では、発展を続ける鉄鋼業や炭鉱業などによる電力需要の増加に伴って、複数の電力会社がしのぎを削っている状態でした。九州電灯鉄道、九州電気軌道、そして九州水力電気が、電力供給許可区域などが重複するなかで無駄な競争を続けていたのです。電気事業に「公共性が必要」と考えていた太吉は、「同じ地域で同業種の2社が対立を続けるのは無駄な労力とお金を使うだけ。互いによく話し合って、合併するほうがいい」と、九州電灯鉄道と合併に向けた交渉を進めます。ところが、合併比率の調整が難航しているあいだに、九州電灯鉄道は関西水力と合併し、東邦電力となってしまいます。
 さすがの太吉も憤りを見せましたが、すぐに方針を転換。大正元(1912)年に、博多電気軌道との合併を実現させました。水力による発電と電力の卸売りを行っていた九州水力電気は、電車の運行や電力の小売に事業を拡大することになったのです。
麻生の足跡-地域とともに- 九州の電気事業(後編)

 当時の新聞には、こう出ていたようです。

安川氏にありては九鉄との合併は是迄の成行上甚だ困難なりと見て取り寧ろ此際は九州水力と合併するに若かずとなし九水に向って交渉したるが談意外に容易進捗して氏は去る十四日帰福の途次、折柄大分紡績創立総会出席の為め九州に下り居れる九水取締役和田豊治氏と下関春帆楼に於て会見し両氏の間合併に関する意見爰に一致したるを以て和田氏は直に東京本社に向って長文の電報を発し十六日東京に於て重役会を招集すべき旨を申送り当日和田氏自身も之に出席し協議の結果満場一致を以て博軌合併を決議せり、而して一方博軌側に於ても富安保太郎、河内卯兵衛、北崎久之丞、渡辺綱三郎、中島修二郎氏等の委員は十七日常盤館に会合是又九水との合併を一決し富安、河内、北崎の三氏は十八日出発上京し九水側と仮契約を締結することなれり、
九鉄博軌仮契約成立 合併交渉の顛末[九州水力電気株式会社と博多電気軌道株式との合併問題 其一]
1912.7.21(明治45) 福岡日日新聞

 この後、どんでん返しになるわけですな。

だが、これらの延伸がある一方で博多電気軌道の経営は行き詰まりを見せており、同年11月4日に救済の形で同社に電力を供給していた電力会社の九州水力電気へ吸収合併された。
合併後、九州水力電気では自ら路面電車事業を押し進めることにし、1914年(大正3年)4月22日に千代町 - 博多駅前間を開業、環状線を完成させた。さらに同社は、西新町 - 姪浜間の軽便鉄道線を改軌・電化した上で路面電車に組み入れるとともに、環状線の渡辺通一丁目から分岐させてその起点である西新町を結ぶ、城南線の計画を立てた。前者は1922年(大正11年)7月26日に完成するが、後者に関しては諸事情で工事が遅れる。だが、沿線にある大濠公園において東亜勧業大博覧会が行われることになっていたため、その開場前日である1927年(昭和2年)3月25日に何とか開業へこぎつけた。
1928年(昭和3年)5月31日には、残った軽便鉄道線である姪浜 - 今宿 - 前原間を筑肥線の前身である北九州鉄道に譲渡する。そして1929年(昭和4年)5月1日、九州水力電気から電車事業を再分離することになり、この時博多電気軌道の社名が復活することになった。
以後、福岡市街と西新との間で競合路線を有する東邦電力の電車線(福博電気軌道の後身)と乗客獲得競争を繰り広げたりもしたが、1931年(昭和6年)には東邦電力に博多電気軌道が保有していた西新町 - 今川橋間の免許を譲渡(翌年開通)するなど、両社線の間での接続の便も図った。
博多電気軌道 - Wikipedia


 ちなみに、警固、鳥飼、西新の区画整理に九州水力電気も出資したようです。
 「福岡は1923年に旧都市計画法の適用を受けるが,1921年8月22日に旧警固村,旧鳥飼村,旧西新町一旧福岡市域外一の耕地整理に関する件を市議会で協議した。面積は421haで,既に都市計画準備調査委員会は発足していたが都市計画が未だ適応されていないため,耕地整理の名目で市街割を行うというものであった59)。工費は85万円を見積もっていた。その内訳は,城南線敷設を企画する九州水力電気(株)(博多電気軌道(株)の後身)が,その工事費として30万円を提供し,福岡市が50万円を負担するものであった。(参照)」


 そして、九州水力電気は供給区域などを拡大していきます。
 「また、博多電気軌道を合併し福岡市、筑後水力電気を合併し福岡県北東部、日田水電や豊後電気鉄道・大分水力電気を合併して大分県内へ供給区域を拡大させた。これに対応すべく、大分川水系や筑後川水系(玖珠川筋)、大野川水系で水力発電所を建設し、発電能力は約4 倍となった。九州水力電気は順調に事業規模と範囲を拡大させ、九州を代表する電力会社に成長を遂げていた。(参照)」

<福岡、大分で鉄道事業を分離>

 そんな中、九州水力電気は鉄道事業を地域ごとに分離していきます。

 このような九水の拡大政策は営業地域が交錯する他会社との蛾烈な競合を生むこととなった。こうしたなかで同社は一方では電気軌道部門の分離・別会社化を開始し,まず1927年(昭和2)に大分電鉄軌道を別府大分電鉄株式会社に分離移譲,さらに1929年(昭和4)7月1日付けで福岡市内及び北筑線の電気軌道部門を分離して新設の博多電気軌道(正式社名,博多電気軌道株式会社)に譲渡した。この新設の博多電気軌道は先に九水に合併された博多電気軌道と同名の,全株式を九水が保有する子会社で,福岡市内環状線,北筑線(今川橋・姪浜間),城南線(渡辺通一丁目・西新町)を経営することとなった(前掲『九州水力電気株式会社二十年沿革史~376-378頁)。この間1928年(昭和3)8月には地元筑豊の炭坑主で石炭業を中心に種々の事業を経営し地方財閥を形成していた麻生太吉が九水の社長に就任していたが,新設の博多電気軌道の社長にも麻生太吉が就任していた(前掲『西日本
鉄道七十年史~15頁)。
(参照)

 例えば、大分の場合はこういう感じです。

大正5年4月1日
九州水力電気(株)が豊後電気鉄道を合併して事業継承 電力会社の強大な資金力をバックに電車路線を次々に延長
昭和2年7月1日
九州水力電気も兼業としての電鉄事業に多額の投資を行った為、経営が圧迫され 別府大分電鉄(株)に電鉄事業を移譲
本社社屋 及び 車庫を堀川から現在の新川へ移転
(■大分交通 大分・別府のバス情報)

 ちなみに沿革は以下の通り。

1896年8月5日 豊州電気鉄道株式会社として設立。
1900年5月10日 豊州電気鉄道が大分 - 別府間に路面電車を開通させる(後の別大線。九州初、京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道に続く全国で5番目の電車路線)
1906年1月4日 豊後電気鉄道が設立され、経営不振に陥った豊州電気鉄道の事業一切を継承。
1916年4月1日 九州水力電気が豊後電気鉄道などを合併。
1927年7月1日 九州水力電気が大分 - 別府間の軌道事業を別府大分電鉄として分社化。
1945年4月20日 戦時政策の影響により別府大分電鉄が国東鉄道・耶馬渓鉄道・宇佐参宮鉄道・豊州鉄道(もとの日出生鉄道)・別杵自動車を吸収し、大分交通となる。
(大分交通 - Wikipedia:2 沿革)


 一方で、福岡市内では鉄道事業を分離して博多電気軌道が設立されます(参照)。

 そして、東邦電力からも鉄道部門が分離されたのを機会に博多電気軌道と一本化され、福博電車が設立されます。

 だが、福岡市内の交通機関が2社に分かれているのは、乗客などからしても不便であった。そのため、東邦電力からの電車事業分離を契機に、博多電気軌道との合併を行おうということになり、1934年(昭和9年)10月26日に受け皿会社の福博電車を設立、11月1日から両社の保有路線は福博電車の運営となった。
(参照)

 これによって、福岡市の市内電車は東邦電力と九州水力電気の傘下になったようです。

昭和の時代に入ると、東邦電力では博多電気軌道の敷設免許を譲り受け、両社の路線を接続すべく1932年(昭和7年)に今川橋 - 西新町(→西新)間を開業させる。しかし、会社が異なるため直通は行われなかった。
当時、福岡における市内電車(市電)の営業会社が2つ存在することは、乗り継ぐ場合にそれぞれの初乗り運賃が別途必要になるなど、乗客から見れば不都合以外のなにものでもなかった。そんな中、全国的に電力事業と鉄道・軌道事業の分離の動きがあり、東邦電力でも九州の電車事業が分離することとなったため、これを機に博多電気軌道との統合を図ることにした。1934年(昭和9年)10月26日に合併は成立し、11月1日から市内電車は新設会社の福博電車の運営になった。
その後、1942年(昭和17年)9月22日には北九州・福岡地域の鉄道事業者が統合されて西日本鉄道(西鉄)となり、福博電車の路線は同社の福岡市内線となった。これが全廃されたのは、1979年(昭和54年)2月11日のことである。
参照


 そして、九州水力電気は次回紹介する九州電気軌道を吸収することになります(次回に続く)
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