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鹿児島大学はどこにあったのか(3)~師範学校はどこにあったのか
 (前回のつづき)鹿児島大学教育学部は、鹿児島師範学校と鹿児島青年師範学校を前身としているそうです(参照)。

<鹿児島師範学校はどこにあったのか>

 鹿児島師範学校は、最終的には現在鹿児島県立短期大学(鹿児島市下伊敷)の校地になっている旧・西部第18部隊跡(鹿児島郡伊敷村大字下伊敷)にあったようですが、それは1947(昭和22)年5月からのこと。

 先に述べた通り、「工学部の旧下伊敷校地は、隣接の旧鹿児島大学教育学部校地と共に、1959年以来鹿児島県立短期大学が使用している(参照)」との事なので、現在鹿児島県立短期大学がある辺りのようです。
 また、鹿児島市史第二巻によると、玉江小学校は(昭和34)年に小野町から「教育学部跡に全校移転」したとあります(参照)ので、玉江小学校がある辺りも使っていたようです。

 それ以前は、男子部は鹿屋市、女子部は肝属郡吾平町にあったようです。
 しかしそれも1945(昭和20)年6月の鹿児島空襲(参照)で校舎が焼失し、1946(昭和21)年4月に移転したからです。

 疎開先から元の校地に戻れなかったのは、師範学校が県から国に移管されたあとの土地建物の「移管手続中に」書類が「戦災とともに焼失したと推定」されたうえ、移転して用途廃止されているとの理由で、県知事が土地の所有を主張したからのようです。
 また、附属小学校以外の武町の校地は既に都市計画決定されたと鹿児島市長も難色を示したとのこと。
 そこで、第十八部隊の土地、兵舎の半分と旧練兵場の大部分を割譲してもらったと鹿児島市史第二巻(参照)にあります。

 どうでもいいですが、この福岡空襲の説明は、被害のまとめより自画自賛が多すぎてひどい。


 それではそれ以前はどこにあったのでしょうか。
 男子部はどうやら鹿児島郡西武田村大字武 (現・鹿児島市武)にあったようで、女子部は鹿児島市山下町にあったようです(参照)。

 先に出た、鹿児島市史第三巻(参照)付録の昭和3年訂正増補鹿児島市街図によると、男子師範学校と附属小学校は西鹿児島(現鹿児島中央)駅の西側にあります。
 後にJR九州鹿児島支社(鹿児島鉄道管理局)や鹿児島郵便貯金センター(鹿児島地方貯金局)ができた辺りを含めたかなり広い範囲のようで、現在新幹線の鹿児島中央駅があるのもその一部です(参照)。

 鹿児島鉄道管理局は、1950(昭和25)年に鹿児島駅から西鹿児島駅に移転したようです(参照)。

 女子部は第二高等女学校と一緒だったようで、現在の名山小学校と教育センターがある場所のようです。

 鹿児島市史第二巻によると、元々鹿児島第二高等女学校と統合されていたようです(参照)。


<師範学校附属小学校はどこにあったのか>

 ちなみに附属小学校は1959(昭和34)年まで武町100番地にあったらしく、旧男子部(武教場)の場所に残っていたようです(参照参照)。
 鹿児島市史第二巻によると、この土地は鹿児島県立工業試験場に移管されたようです(参照)。
 師範学校の敷地の一部が附属小学校として残され、その土地に工業試験場ができ、その跡地の一部に鉄道管理局や貯金事務センターができたということのようです。

 また、附属中学校は1963(昭和38)年まで山下町1にある現在の名山小学校の位置にあったようで、旧女子部(山下教場)の場所を使っていたようです(参照参照)。

 鹿児島市史第二巻によると、名山小学校は元々長田中学校と同じ位置にあったのを、附属中学校移転を機にこちらに移転したようです(参照)。

 附属特別支援学校は伊敷にありますが、ここは旧練兵場跡地で、教育学部の実習地として使っていたもののようです(参照)。

<鹿児島青年師範学校はどこにあったのか>

 鹿児島青年師範学校は、最終的には鹿児島郡伊敷村脇田 (現在の鹿児島市伊敷)の伊敷小学校校内の青年学校校舎にあったようです(参照)。

 その伊敷小学校の沿革(参照)が、今のところよくわかりません。
 隣のと玉江小学校の沿革(参照)や鹿児島市史と矛盾しているからです。

 伊敷小学校の沿革によると、玉里町紙屋谷に大平小学校として1878(明治11)年に、創立したと書かれています(参照)。
 しかし、1970(昭和45)年発行の鹿児島市史第二巻では、伊敷小学校の創立は1892(明治25)年になっています(参照)。
 伊敷小学校の沿革によると、1879(明治12)年には小野町28に移って玉江小学校と称したとされ、1890(明治23)年に草牟田町の鶴尾小学校を合併し、1892(明治25)年10月1日に伊敷尋常小学校と改称したと書かれています(参照)。
 ははー。つまり、旧制第七高等学校は藩校造士館の流れを汲んでいるんだと主張するようなもんなんだなと思いましたが、それだけでは説明がつかないのが玉江小学校との関係です。

 一方の玉江小学校も、1878(明治11)年に下伊敷字脇ノ谷に大平小学校として開校したと主張しています(参照)。
 しかしこちらも、鹿児島市史第二巻では1889(明治22)年創立になっています(参照)。
 しかも、こちらも草牟田にあった鶴尾小学校を合併したと主張しています(参照)。


 鹿児島市史第二巻によると、青年師範学校の跡地が鹿児島大学教育学部分教場になっていたそうです。
 その跡地が鹿児島市吉野町の市立農芸学校の一部になり、1967(昭和42)年にその跡地に鉄筋コンクリート校舎を新築した上で、伊敷小学校が「隣接校地」から移転したとのことです(参照)。

 鹿児島農芸高等学校というのは、鹿児島、吉野、紫原の三青年学校が統合された学校のようです(参照)。


 鹿児島大学教育学部の実習農場が伊敷町脇田にあり、1960(昭和35)年に廃止されるまで使用したらしいので、その辺は符合します(参照)。

 ただ、鹿児島市史第二巻によると、鹿児島青年師範学校の校地は1万7871平方m(建物3415平方m)。その上実習地が4万6115平方mもあって青年学校も附属していた全国有数の規模であったそうです(参照)。
 現在の伊敷小学校がそんなに広いのかはかなり疑問です。

 ちなみに、青年師範学校は伊敷に移る前は高等農林学校内にあったらしい(参照)ので、出戻りということかもしれません。
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