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元々鉄道ブログですが、福岡県古賀市、新宮町、福津市の情報に移行、その後福岡市近郊の情報に寄り道した後、心理学と障害者福祉に関心を移しています。
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 元々は鉄道ブログです。
 と言いつつ、福岡市北郊にある新宮、古賀、福津の情報をメインに書いていました。
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電灯事業から見た西日本鉄道の成立(3)~九州電気軌道編
 前々回は、福博電気軌道(→博多電燈鉄道→九州電燈鉄道→東邦電力(→福博電車))と九州鉄道について、前回は博多電気軌道(→九州水力電気→博多電気軌道→福博電車)について見てきました。
 今回はいよいよ九州電気軌道とその他を見て行きます。

<九州電気軌道の設立>

 まず、九州電気軌道の来歴について見てみます。

まず1905年(明治38年)10月に松方幸次郎をはじめとする関西の事業家により「門司電気鉄道」の名で門司 - 小倉間の軌道路線が出願され、続いて翌1906年(明治39年)7月には富安保太郎をはじめとする福岡県内の有力者により「八幡馬車鉄道」の名で小倉 - 黒崎間の軌道路線が出願されている。八幡馬車鉄道はその名の通り馬車鉄道として計画されたが、のちに動力を電気とする計画に変更され、社名も「八幡電気鉄道」に改めている。この2社には1907年5月1日に特許が下りたが、営業区域が接近していることから当局の強い要請により2社は統合され、九州電気軌道として設立されたのであった。松方が社長に、富安は取締役にそれぞれ就任している。
(参照)

 関西系と地元系の合弁ってことですね。

 次に、沿革を見てみます。

1908年(明治41年)12月17日 資本金100万円で会社設立。本社を小倉市船頭町73番地に置く。初代社長は松方幸次郎。
1909年(明治42年)11月1日 大阪電灯門司支店を買収し、電力供給事業に参入。
1909年(明治42年)12月1日 小倉電灯を買収。
1910年(明治43年)10月1日 八幡電灯を吸収合併し、資本金105万円に増資。
1930年(昭和5年)10月 九州水力電気の傘下に入り、大田黒重五郎が3代目社長に就任。
1936年(昭和11年)1月20日 バス事業を九州合同バス(1936年1月15日設立)に譲渡。
1940年(昭和15年)1月31日 電力供給事業を九州水力電気に譲渡。
1942年(昭和17年)2月1日 小倉電気軌道を吸収合併。資本金3,045万円に増資。
1942年(昭和17年)3月1日 九州合同バスからバス事業を譲受。
1942年(昭和17年)9月19日 九州鉄道など4社を吸収合併する。
1942年(昭和17年)9月22日 西日本鉄道に社名変更。本社を福岡市西新町209番2号の旧福博電車本社に移転。
(参照)


 松本清張の半生記を読んでいると、高等小学校を出た松本は大阪の川北電気という会社の小倉出張所に就職したそうです。
 その会社は、九州電気軌道の仕事をしていたとか。


<九州電気軌道が九州水力電気に吸収される>

 そして、前回出た九州水力電気(九水・関連関連)が九州電気軌道を吸収します。

 九州電気軌道は、昔の電気鉄道会社にありがちな、電力会社兼業だったようです。

1942年(昭和17年)には小倉市の魚町 - 北方間の路面電車を運営していた小倉電気軌道を吸収合併し、北九州地域の軌道事業の一元化を実現した。九州電気軌道は国による電力統制が実施されるまでは同社路線にも給電を行っていたほか、同社に一部資本参加・経営参加していたが、同社を系列下に置いていたわけではなかった。しかし戦時体制の影響により合併となったのであった。この小倉電気軌道の路線は北方線となり、1980年(昭和55年)まで営業した。
(参照)

 九水が九軌を傘下に収めたのは、そういう電力事業の事情もあったようです。

九州電気軌道は社名の通り、当初は軌道事業を目的として設立されたが、設立後の1909年(明治42年)に大阪電灯門司支店などを買収して電灯事業(電力供給事業)に参入した。1911年(明治44年)には従来の発電所に代えて小倉市鋳物師町に火力発電所を新設している。
大正時代後期になると、九州電気軌道と同じく北部九州地区で電力供給事業を展開していた九州水力電気や東邦電力と事業区域が重複し、三つ巴の競合となった。九州水力電気は九州電気軌道を買収して自社の水力発電事業と九州電気軌道の火力発電事業を一元化することをもくろみ、当時の九州電気軌道社長で同社最大の株主でもあった松本枩蔵との話し合いを進め、1930年(昭和5年)には松本が保有していた九州電気軌道株35万株を額面の2倍で取得し、さらにそれとは別に松本に200万円を贈ることで社長を退任させた。これにより九州電気軌道は九州水力電気の傘下となった。
その後、電力管理法が施行されたため1939年(昭和14年)には自社が保有する全発電所と変電所・送電設備の一部を日本発送電に現物出資し、翌1940年(昭和15年)1月には残った電力供給事業をすべて九州水力電気に譲渡し、九州電気軌道は交通事業専業となった。
(参照)

 元々、九州水力電気の麻生太吉は、電力会社の統合論者だったようです。

 大正2(1913)年。太吉は、九州水力電気の取締役となり、ふたつの大きな事業を進めていきます。熊本県の阿蘇を流れる杖立川に水力発電所に建設すること、宮崎県の五ヶ瀬川を他社との協力のうちに開発することでした。
 とくに五ヶ瀬川の開発については「産業の振興にとっても、国の経済にとっても、無駄な利権争いを避けることが必須である」と太吉は考えていました。そして「水利権をめぐって競い合っている電気化学工業、三菱鉱業、東邦電力、九州水力発電が出資しあって、新会社で進めるべきだ」と、時の逓信大臣、野田卯太郎氏を説得します。

 太吉の願いどおり、4社等分の出資による九州送電が設立されたのは、大正10(1921)年4月のことでした。九州一円への送電販売のみならず、各地の水利権を継承して設備を整え発電も手がけることになり、昭和2(1927)年から五ヶ瀬川に高千穂発電所の建設をはじめると急速に事業が進展。九州の電力業界を掌握するまでに成長したのです。

 昭和3(1928)年になると、太吉は九州水力電気の社長に就任。大正12(1923)年以降続いていた世界的な不況の下にあって、九州においても電力の需要が低下していたため、社内経費の思い切った削減と、電力界の統合を計っていきました。
麻生の足跡-地域とともに- 九州の電気事業(後編)

 そういう背景もあり、合併ということになったようですね。

北九州の電力は、九州電気軌道(九軌)と九州水力電気(九水)が分け合っていました。九軌は火力、九水は水力発電で配電しました。1924(大正13)年両社の顧客獲得競争は激化しました。1925(大正14)年名古屋の東邦電力の北九州進出が明らかになり、三つ巴の競争となりました。
1928(昭和3)年麻生太吉が九水の社長になると、九軌・九水両社の株式の持合を行い、1930(昭和5)年九水が九軌を買収して、九軌は九水の傘下に入りました。
7.大正時代の北九州

 東邦電力と九州水力電気には因縁もあります(関連)し、危機感も強かったかもしれないですね。

<九州電気軌道の不正手形事件が発覚>

 1930(昭和5)年の合併直後、不正手形事件が発覚します。

 昭和5(1930)年に九州電気軌道の経営権を掌握したときには、直後に前社長が不正手形を乱発していたことが発覚。膨大な手形の決済を迫られ窮地に立たされました。しかし、太吉は井上準之助蔵相に融資の相談を持ちかけて日本興業銀行から特別融資を受けると、不正を表沙汰にすることなく完済します。あわせて人員整理、株式の無配当化、社債の発行、役員はじめ高給社員の減棒、経費節減なども行い、再建を果たしたのです。
麻生の足跡-地域とともに- 九州の電気事業(後編)



 九州電気軌道は明治41年12月、明治の元勲である松方正義の3男で川崎造船所(現川崎重工業)の社長を務めた松方幸次郎(1866~1950)らが設立した。松方は初代社長として、東洋随一の重工業地帯だった現北九州市を中心に路面電車や電力事業を次々に拡大していった。
 だが、「炭鉱王」と言われた麻生太吉(1857~1933、麻生太郎副総理の曾祖父)が社長を務める九州水力電気との壮絶な顧客獲得合戦で疲弊し、九州電気軌道の経営陣は九州水力への株式売却を決めた。昭和5年10月、九州電気軌道を傘下に収めた麻生は、芝浦製作所(後の東芝)元専務で九州水力取締役の大田黒重五郎(1866~1944)を第3代社長に据え、腹心の村上を統括役として専務に送り込んだ。
 ところが、村上が専務就任直後、大事件が起きた。松方の娘婿で九州電気軌道第2代社長の松本枩(まつ)蔵(ぞう)が、4千万円もの不正手形を乱発していたことが発覚したのだ。現在の価値なら400億円。不渡りになれば、九州電気軌道が倒産するどころか、連鎖倒産は全国に広がる。
 「これが公になれば日本経済は大パニックに陥る。公表前に事件を処理せよ」
 麻生からこう厳命された村上は、同じ大分県出身の蔵相、井上準之助(1869~1932)に泣きついた。事態の深刻さを理解した井上は、日本興業銀行からの秘密融資を斡旋し、何とか事件公表前に手形回収を成功させた。村上らは周囲に勘ぐられぬよう「関門海峡に橋をかけるため新会社を設立する」などと嘘を盛んに喧伝したという。
 電力マンだった村上は、鉄道事業の経験は皆無だったが、この時の手腕を高く評価され、昭和10年7月に九州電気軌道第4代社長に就任した。
 昭和17年9月、合併により西鉄第4代社長を名乗った村上は翌18年に早速、工業都市・八幡市黒崎(現北九州市八幡西区)から筑豊炭田(現飯塚市、直方市)を経由し、商都・福岡市に至る「筑豊電鉄」(総延長57キロ)の敷設免許を鉄道省に申請した。
(参照)

 隠蔽していたわけですな。

<東邦電力から九州電気軌道への株式譲渡>

 そして、「1941年(昭和16年)には電力国家管理に伴い東邦電力は福博電車株をすべて九州電気軌道に譲渡している(参照)」そうです。

しかし、1938年(昭和13年)に電力国家管理法が公布されたことで電力事業者は鉄道事業者株を手放さざるを得なくなったため、東邦電力は1940年(昭和15年)に自社が保有する九州鉄道株を九州電気軌道に譲渡した。当時の九州鉄道の社長であった進藤甲兵の反対もあったが、この譲渡により九州電気軌道は東邦電力に代わり九州鉄道最大の株主となった。同じく東邦電力が保有していた福博電車(のちの福岡市内線)株もやはり同時期に九州電気軌道に譲渡されている。
(参照)

 ということで、東邦電力が九州鉄道と福博電車の株を九軌に譲渡したということです。

 同じ頃、福岡県内では電鉄5社合併に向けた協議が佳境を迎えていた。
 東邦電力は5社のうち九州鉄道と福博電車を傘下に収めていた。残る3社のうち博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の2社は太田清蔵が経営権を握っていた。
 太田は博多の油商「太田屋」の4代目当主だが、明治29年、油のライバルである電気の将来性に目をつけ、県内初の電気供給事業「博多電灯」を設立した。また、経営危機にあった第一徴兵保険(後の東邦生命保険)を引き受け、再建にも力を入れていた。
 合併協議の焦点は「東邦電力解散により九州鉄道と福博電車の株はどこに渡るのか」だった。
 多くの関係者は太田が有力とみていたが、松永が選んだのは太田ではなく、九州電気軌道第4代社長、村上巧児への譲渡だった。
 松永の真意はわからない。おそらく自らの「私鉄統合によるネットワーク拡大を進めるべき」という考え方に、村上がもっとも近いと考えたのではないか。太田も電鉄統合を提唱していたが、過去に会社設立をめぐって松永と衝突したこともあり、その辺りの人間関係も影響したのかもしれない。
(参照参照)

 つまり、この時点で九州電気軌道と九州鉄道と福博電車は同じグループだったという事です。

九州鉄道の設立者である伊丹、松永らはのちに五大電力会社の一つ、東邦電力の経営にかかわった。東邦電力は北部九州をも事業区域とし、九州鉄道も東邦電力の傘下に入っていた。一方、のちの北九州線にあたる路線を運営していた九州電気軌道は北部九州を事業区域とする電力会社である九州水力電気の傘下に入っていた。東邦電力と九州水力電気は北部九州で事業区域が重複し競合していたため、それぞれの傘下にある九州鉄道と九州電気軌道も対立状態にあった。
(参照)

 ということですから、結構心中は複雑だったかもしれませんね。
 まあ、福岡市内電車は東邦電力と九水との合弁会社になったわけなので、案外仲良かったのかもしれませんが。

 同じく九州水力電気系列であった別府大分電鉄も九州電気軌道の傘下ということになったようです。

1940年に同じく九州水力電気の傘下にあった九州電気軌道(西鉄の前身)の傘下に入り、1945年に戦時体制下で大分県北部の鉄道・バス事業者を吸収合併し、大分交通となった。
(大分交通 - Wikipedia:2 沿革)

 しかし、現在では出資比率は減少しています。

西日本鉄道(西鉄)が一部資本を有している。1940年から2003年までは同社の系列会社であったが、出資比率が下がったため西鉄グループを離脱している。
(大分交通 - Wikipedia:1 概要)



<九州配電の成立>

 そして、最終的には東邦電力と九州水力電気も統合されてしまいます。

1942年、国家総動員法により1発電9配電体制に再編されることになり、東邦電力も解散し、日本発送電及び4配電会社(九州、関西、中部、四国)に事業を譲った。

九州水力電気、九州電気、東邦電力、日本水電が統合→九州配電→現・九州電力
東邦電力 - Wikipedia

 九州地区では、九州水力電気が一番のシェアだったようですね。

 九州配電株式会社は、資本金2億3千万円、株数460万株。福岡市に本社、熊本市に本社業務局が置かれました。総株数の分担は、九州電気26.5%、九州水力電気46.4%、東邦電力19.7%、日本水電6.7%、公募0.7%の割合で、この4社合併が電力第1次統合と呼ばれるものです。新会社の電力事業は、九州における事業の90%に達しました。
九州電力 熊本支社 6.生産不足から「ろうそく送電」も

 役員も、それが反映されたようです。

社長は九州水力の木村平右衛門氏、副社長は九州電気の坂内義雄氏が就任した、理事は熊本逓信局電気部長青木誠之、九州水力から真貝貫一、池田常二、奥村茂敏、織田啓治、喜久田又一郎、桜井□三、九州電気から色川干城、大原雅一、渡辺喬、東邦電力から西山信一、佐藤篤二郎、伊丹三郎、田辺九万三、日本水電の上野喜左衛門の各氏が入り監事は日発理事の福井正治氏が常任監事となり、九州水力の八塚秀二郎氏、日本水電の井上多助氏、九州電気の古荘健次郎氏、東邦電力の井手徳一氏が入っている、
電力再構成の前進 (一~六)



九州水力電気=(資本金一億五千万円、払込一億一千百九十九万五千円、社長木村平右衛門)九電と同じく指定会社となり四月一日消滅、合併比率は九水株五十円払込一株に対し九州配電株一・二株の割合である、九州配電へは社長木村平右衛門氏が社長に入った外真貝貫一、池田常二等六氏が理事に入っている
電力再構成の前進 (一~六)

 九州水力電気の1937年の総資産は1億円以上だった(参照)ようです。

 役員については、白杉政愛(参照)、櫻井督三(参照)、三浦義一(参照参照参照)についての記述を見つけましたが、深入りしません。

 九州水力電気は麻生太吉のイメージでしたが、役員になってないんですね。
 ちなみに、戦後に九州電力が発足した際に麻生太賀吉が会長になっています。

 九州水力電気は、太吉の興した昭和電灯(元・嘉穂電灯)、九州送電、九州電気軌道のほかにも延岡電気、九州共同火力発電など電気事業者7社、電鉄2社、電気化学の九州電気工業に出資。九州の電気事業の礎を築きました。
 第2次世界大戦前後の電力国家管理の強行によって、九州の電気事業者は日本発送電への設備出資と九州配電への統合を余儀なくされます。太吉の手がけた数々の電気事業も例に漏れず、日本発送電と九州配電に統合されましたが、戦後、九州のすべての電気事業を引き継いだ九州電力の発足時には、麻生太賀吉が会長に就任。安定的な電力供給へ向け、一役を担いました。
麻生の足跡-地域とともに- 九州の電気事業(中編)


<西日本鉄道の成立>

 そして、いよいよ西日本鉄道の発足です。

 昭和17年5月9日。九州電気軌道第4代社長、村上巧児(1879~1963)は東京・帝国ホテルで記者会見を開き、福岡県内の私鉄5社が合併して「西日本鉄道」(西鉄)を発足させることを高らかに宣言した。
 この直前、村上を含めた5社の代表者は、鉄道省監督局長の佐藤栄作(1901~1975、第61~63代首相)の立ち会いの下で統合契約書に調印していた。戦争拡大に伴い、統制経済を推し進めていた政府にとって、5社合併はその意向に沿った動きだといえる。
 とはいえ、「電力の鬼」と言われ、都市間高速電車の延伸に情熱を注いだ松永安左ヱ門(1875~1971)や村上らが合併を進めたのは、あくまで「私鉄統合による交通ネットワーク拡充」を実現するためだ。それだけに村上の記者会見での言葉には「政府に従ってやったわけではない」との思いがにじんだ。
 統制経済に抵抗した松永は調印式を前に隠居し、九州鉄道など2社の株式を九州電気軌道に譲ったため、村上が5社中3社の経営権を掌握。残る2社は第一徴兵保険(後の東邦生命)など幅広く事業を展開する太田清蔵(1863~1946)が経営権を握っていた。
 太田も、村上と同様に私鉄統合論者だったことから、合併協議は比較的スムーズに進んだ。新会社の株主への配当金確保のため、九州電気軌道が自ら560万円を減資し、誠意を示したことも協議を前進させた。
 私鉄合併の話は首都圏や関西圏でも浮上していたが、各社の利害が対立し、膠着状態に陥っていた。それだけに九州で大型合併が先行したことは、政府にとって朗報だった。佐藤は新聞紙上に「合併交渉が行き詰まっている他の地方に好影響を与える」との談話を出した。
(参照)


<博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の統合>

 しかし、まだ表れていない2社があります。
 博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道です。

 実はこの統合の話は、まず太田清蔵(参照)系の博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の統合話から始まったようです。

筑前参宮鉄道は同じく糟屋炭田内に鉄道路線を持つ博多湾鉄道汽船の直接の支配下にあるわけではなかったが、博多湾鉄道汽船を経営していた太田清蔵は第一徴兵保険(のちの東邦生命保険)をも経営しており、第一徴兵保険は筑前参宮鉄道の大株主および大口債権者となっていた。そのため1941年(昭和16年)に改正陸運統制令が公布された際、鉄道省は博多湾鉄道汽船に対して筑前参宮鉄道を合併するよう要請した。しかし、太田は博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の2社のみを合併するのではなく、同じく福岡県内にあった九州電気軌道・九州鉄道・福博電車と博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道の合併を提唱した。これにより5社が合併し、西日本鉄道が成立した。
 西鉄成立により筑前参宮鉄道の路線は宇美線となったが、1944年(昭和19年)5月1日に国に戦時買収され、勝田線となった。勝田線は1985年(昭和60年)4月1日に廃止されている。
(参照)

 太田清蔵は博多電灯の創始者(関連)であり、東邦電力にもパイプがあり(参照参照)、博多電気軌道(九水と合併)の発起人でもありました(参照)。
 また、博多湾鉄道汽船は九州電灯鉄道(後の東邦電力)の名島発電所(参照参照)への石炭輸送も請け負っていました。

<本当に「西日本鉄道」?>

 さて、合併した後に付いた名前が「西日本鉄道」。
 この大きすぎる名前は、太田清蔵の発案だそうです。

「関門トンネルも開通して営業範囲は九州より広がる。これからは福岡県が西日本の中心になるじゃろう。会社にも『西日本』を冠してはどうか」
(参照)

 名前がデカすぎるやろ!と思いますが、この時点では少なくとも九州各地の交通事業者の株を結構保有している会社だったようです。

 九軌の子会社を見てみます。


  • 九州鉄道 - 天神大牟田線などの前身。1940年系列化

  • 福博電車 - 福岡市内線の前身。1940年系列化

  • 小倉電気軌道

  • 耶馬溪鉄道 - 大分交通の前身の一つ。のちの大分交通耶馬溪線

  • 別府大分電鉄 - 大分交通の前身の一つ。のちの大分交通別大線

  • 九州合同バス

  • 延岡バス - 宮崎交通の前身の一つ

  • 都城自動車 - 宮崎交通の前身の一つ

  • 九州土地信託 - 1919年設立。1932年九州電気軌道に吸収合併

  • 九州土地興業 - 1932年設立。西鉄系列となり1963年西鉄地所と改称、1971年西鉄に吸収合併

  • 井筒屋

  • 九軌デパート

  • 九州特殊鋼 - 1939年設立。1941年に不二越に譲渡し解散。


(参照)

 見ると、大分県の鉄道会社と宮崎県のバス会社を何社か子会社に持っていたようです。

 元々これは、九州水力電気が各社の株式を所有していた(関連)かららしいです。

 別府大分電鉄については既に見ています(関連)が、宮崎交通についてはこう書かれています。

「宮崎県観光の父」である岩切章太郎により、1926年4月22日に前身である宮崎市街自動車が設立、1943年戦時企業統合政策により宮崎鉄道・宮崎バス・都城自動車が合併、県内におけるバス会社は1社となり、現在の独占体制が形成される。1960年代前後の新婚旅行ブームの中核企業として発展する。
(宮崎交通 - Wikipedia:1 概説)

 おいおい。延岡バスと都城自動車はどうなってるんだよ!

 熊本電気鉄道も2008年までは西日本鉄道が筆頭株主であった(参照)ようです。

 こちらについては2008年に経営危機になった際に減増資した関係で関係が薄れたようです。

 熊本電気鉄道(熊本市、斎藤長一郎社長)は4日、減増資や公共交通と不動産への事業特化などを軸とする経営再建計画を策定したと発表した。今年度から7年間を計画期間としている。4月までに取引金融機関から11億円の債権放棄を受けているが、遊休地や有価証券の売却などを進めて借入金圧縮を一段と進める。
 鉄道、路線バスと不動産事業に集中し、レジャー施設などは売却する。一般個人株主を除き、関連会社や役員は100%、西日本鉄道など法人株主は90%の株式を無償取得のうえ消却。資本金1億5600万円を4400万円に減らす。その後、1億5000万円の第3者割当増資を実施する予定。24日の定時株主総会で決める。
 現在の取締役及び監査役は定時株主総会を持って全員が退任。4月に顧問に就任した日本航空出身の吉田朝彦氏が後任社長に就く予定だ。
 熊本電鉄は熊本市など県北部で鉄道2路線やバス事業を運営している。
(熊本電鉄、経営再建へ減増資 レジャー施設売却・2008年6月5日付日本経済新聞)



前号で「同社の株主は松野頼三一族が占めており…」と記したが、これが誤りだった、お詫びします。筆者が持っていた資料が古く、松野鶴平氏以降80%近い株式を松野一族が所有となっていたのである。19年度の大株主は西鉄41万4千、熊本企業開発20万、松野頼久18万、肥後銀行18万株となっている。
(参照)

 どういう経緯で西日本鉄道が熊本電鉄株を持っていたのかは分かりませんでしたが、西日本鉄道自体は熊本への延伸を考えていたようです。

 合併前年の41年に、九州鉄道が大牟田―熊本間(大熊鉄道)の鉄道敷設を出願している。この構想を実現するために計画されたのが、日本初の高速鉄道用連接車500形だ。車両と車両の間に連接構造を採用することで、カーブの通過がスムーズになり速いスピードを維持できるという。設計最高速度は時速110キロに達する。
 だが、構想実現へのハードルは高かった。戦時下で兵器の製造が優先され、資材調達が困難に。そのうえ、熊本県知事が県内資本ではない大熊鉄道の敷設には同意できないと表明したことで、政治的にも計画は暗礁に乗り上げてしまう。結局、戦況が悪化していた44年に大熊鉄道の申請は却下された。
(参照)

 西日本鉄道にはかつて久留米から八女までの福島線という路線を持っていました。
 かつて熊本電鉄の終点だった山鹿市と八女市は近いので、てっきりそっちで伸ばすのかと思ったら、大牟田からの計画だったんですね。

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2012年4月から書き溜めていた記事なので、一部リンク切れがあるかもしれません
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