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元々鉄道ブログですが、福岡県古賀市、新宮町、福津市の情報に移行、その後福岡市近郊の情報に寄り道した後、心理学と障害者福祉に関心を移しています。
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博多湾鉄道の誕生
 西日本鉄道の資料を読んでも、宮地岳線の事はあまり出てきません。
 そんなこんなで困ることも多いわけですが、博多湾鉄道汽船の片割れである粕屋線がJR香椎線になった関係で、JR関係の資料に出てくることがあります。

 今回は、主に弓削信夫 福岡鉄道風土記の中から、博多湾鉄道汽船についての話を拾っていこうと思います。

<博多湾鉄道の誕生>

 博多湾鉄道は、設立当初は東京の人たちが中心になって作られた会社だったようです。

 もう少し説明すると、同線は博多湾鉄道が建設して開業(明治37年)したのを、のち国が買収(昭和19年)したもの。その博多湾鉄道湾鉄道(ママ)の発起人であり、筆頭株主が岩谷松平。薩摩出身で、上京後商人になり、日本で初めて紙巻きタバコを作って売り出した人(明治37年に国の専売となる前は民営だった)。彼が売り出したタバコの名前は「金天狗」「銀天狗」「赤天狗」「青天狗」などいずれも天狗が付き、天狗煙草と総称され、また、<驚く勿れ税額千八百万円>などという奇抜な新聞広告でも有名。その天狗煙草でもうけた金を出資して博多湾鉄道を設立。まず明治三十七年一月一日、西戸崎~須恵間を開業したというわけ。
 『西日本鉄道七十年史』(昭和53年、同社刊)などによると、明治二十三年、海軍が糟屋郡須恵村(現須恵町)の大字新原に新原採炭所を開設した。当時は軍艦の燃料が石炭だったため、海軍としても良質の石炭を常時得るために自前の炭鉱を持ちたかったわけ。その後、日露間が緊迫、これなら軍艦用石炭輸送の需要は増えるぞというのが天狗煙草氏の見通し。
 そこで須恵をはじめとする糟屋炭田の石炭を、列車で博多湾口の糟屋郡志賀島村(島の手前の現福岡市東区西戸崎)に運び、ここに港を造って、船で呉(広島県)などの軍港に運ぼうと鉄道会社を設立した。同鉄道開業の約一ヵ月後(明治37年2月8日)日露戦争が始まっているからなかなかの見通し。
 国際情勢や海軍の動きを見て創られた会社であるためか、発起人も、大口株主も、半分以上が東京の人であり、初めは本社も東京で、肝心の地元は福岡市行町(現博多区奈良屋町付近)に出張所があるという形。しかし開業の数日前、本社と出張所を統合して西戸崎駅前に移転した。
 社長は佐藤暢。薩摩藩出身。上京して司法省に入り、陸軍軍人として台湾出兵に参加、のち栃木県知事も務めた人。
 九十年以上前のことであり、開業当時の社員で現存者はいないが、のち同社に就職、西戸崎の本社に勤務した村上靖朝さん(85)=のち西鉄社員、西鉄名店街の重役で退職、福岡市東区御島崎在住=に聞くと、
「西戸崎駅前の松林の中に、小さい木造平屋建ての社屋がありました。松林の中だから夏でも涼しかったのを覚えています」
 ということ。
 湾鉄はその後石炭輸送の船も所有するようになり、大正九年、博多湾鉄道汽船会社と改称。昭和十七年、五社合併で西日本鉄道会社になり、この線は同十九年五月一日、国に買収され、国鉄香椎線になり、現在はJR香椎線。
(弓削信夫 福岡鉄道風土記 葦書房)

 岩谷松平(参照)の店は東京の銀座。現在の東京都中央区銀座三丁目の銀座通りと松屋通りの交差点にあったのだそうです。
 その土地を村越庄左衛門と松沢八右衛門から、後に第一徴兵保険株式会社が購入。1925(大正14)年に銀座ビルディングが建てられています()。

 志賀島~宮田、宮田~植木、宮田~弓削山、奈多~篠栗、香椎~宇美という実に84.1kmもの仮免状が降りたのが、1898年11月7日。
 博多湾鉄道はその後1900年2月に設立されます。
 そして、西戸崎~宇美、土井~篠栗、奈多~中泉、宮田~植木の88.7kmの免許が降りたのが1900年6月13日。
 奈多~中泉、宮田~植木の52.8km分の免許は1901年6月29日に失効したようですが、1903年12月26日には宇美~吉井41.3kmの仮免状が降りています(青木栄一 西日本鉄道関係路線発達年表 鉄道ピクトリアルNo.668 1999.4)。

 1904(明治37)年1月1日には書いている通り博多湾鉄道が開業しています。
 このとき開通したのは現在のJR香椎線の西戸崎~須恵間21.2kmで、当時は和白駅もありません。

 えーっと、この部分は宮地岳線とは関係なかったですね(^_^;)


<和白駅の誕生>

 宮地岳線はまだありませんが、和白駅ができたのは、翌年1905(明治38)年1月24日。

 和白駅は、線の開通後約一年たった明治三十八年一月二十四日、奈多(現雁ノ巣)~香椎間に開業した(『日本国有鉄道百年史』第十一巻による)場所は糟屋郡和白村。現在は福岡市東区和白。
 前記『わじろ』に連載された湾鉄OB、樋口宅蔵さんの「湾鉄物語」によると、〈線の開業時には和白駅がなかったので、地元の大地主、安河内千吉さんが湾鉄に、自分の土地を提供することを申し出て、駅設置を陳情、和白駅が実現した〉(要旨)ということ。
 湾鉄は大正十三年、この線とは別線の新博多~和白間を開業、翌年、和白から宮地岳まで延長した。現在は貝塚~津屋崎間になっている宮地岳線がこれだ。これによって和白は二つの線の列車が着く駅になった。
 初めは別の線でも、同じ会社だからよかったが(五社合併で西鉄になっても同じ)、昭和十九年、両線のうち初めに出来た線は国に買収されて国鉄香椎線。宮地岳線の方は西鉄に残ったから、この時点からは他人。
 いまもそれぞれ別の駅舎とホームがあるが、JRの駅舎から跨線橋を渡って西鉄のホームにも、西鉄の駅舎からJRのホームにも行くことも出来、元は同じ会社の線だったことが伺える。

 和白と香椎の間には、昭和九年から唐ノ原駅があったが、いまでは廃止されている。
(弓削信夫 福岡鉄道風土記 葦書房)

 現在は、JRと西鉄のホームを行き来できなくなっていますね。

 現在、宮地岳線には唐の原駅がありますが、こちらは1986(昭和61)年11月1日に開業したもので全くの別物。
 唐の原駅は、以前機関区があった場所なのだそうです。

 この後、1905年6月1日には須恵~新原2.2kmが開通。12月29日には新原~宇美1.2kmが開通しています。
 ちなみに1905年中に宇美~吉井41.3kmの仮免状が失効して、身の丈に合った規模の計画になっています。
 土井~篠栗、酒殿~原町10.4kmの免許も1907年7月12日に失効していますが、酒殿~志免1.9kmの仮免状が1907年11月9日に降り、1908年4月21日に免許が降り、1909年8月1日に1.7kmが開通しています。
 そして、1914年4月22日に志免~旅石1.2kmの免許を得て、1915年3月11日に開通させています(青木栄一 西日本鉄道関係路線発達年表 鉄道ピクトリアルNo.668 1999.4)。


<太田清蔵の経営>

 1915(大正4)年に、博多湾鉄道の実権を太田清蔵(参照)が握り、1918(大正7)年6月には経営トップに就任します。

1918年6月に太田清蔵(4代目)が専務取締役に就任し経営のトップに立った。1915年に第3位の大株主(3129株)となっていたが徴兵保険会社専務取締役名義でも3850株を所有しておりその後も持株比率を高めた結果であった。
(参照)


 「西日本鉄道の名付け親」(太田清蔵翁伝p219)としても有名な太田清蔵は博多の老舗の油商太田屋の当主で博多商業会議所会頭等,福岡財界の有力ポストを歴任し博多湾鉄道汽船(湾鉄)のほかにも北九州鉄道,筑前参宮鉄道,九州肥筑鉄道など多くの私鉄にも関与した.もともと湾鉄は帝国生命・黒田家中心の鉄道であったが,太田が「ボロ会社視された博多湾鉄道を拾い上げて,立派にこれを育て上げ」(太田清蔵翁伝p352)「自らが主体となって全責任を負」(太田清蔵翁伝p153)うことになった結果,昭和初期の湾鉄危機の際には「福岡銀行ないし太田家危しのうわさ」(太田清蔵翁伝p225)も飛んだほどであった.
(小川功 西日本鉄道グループの系譜―戦前期のあゆみを中心に 鉄道ピクトリアルNo.668 1999.4)

 そして、1919年6月28日に津屋崎村~若宮村15.8km、1919年8月2に和白~福間12.0km、1919年10月25日に和白~福岡10.5kmの免許を取得し(青木・1999)、1920(大正9)年3月25日に、博多湾鉄道汽船に商号変更(関連)します。
 1921年10月21日に若宮村~飯塚町15.1kmの免許を得た(青木・1999)後、1924(大正13)年5月23日に新博多~和白間の鉄道を開業(関連)しています。
 1924年1月23日に福間~津屋崎の津屋崎軌道を合併し(青木1999)、翌1925(大正14)年7月1日に和白~宮地嶽12.2kmを開通させ(関連)、11日には旧津屋崎軌道の馬車鉄道の道辻から宮地嶽駅前まで0.2km延長して接続を図り、1929年8月16日には新博多~宮地嶽を電化しています(青木1999)。

 その後、博多湾鉄道汽船は筑豊方面への延伸を目指したわけですが、1929(昭和4)年8月に発覚した五大私鉄疑獄事件と呼ばれる事件により頓挫してしまいます(関連関連)。

 結果、津屋崎村~若宮村の免許は1935年6月11日に失効。若宮村~飯塚市の免許は1936年1月30日に失効しています(青木1999)。

<本社移転>

 そして、1936(昭和11)年に、博多湾鉄道汽船の本社は西戸崎から香椎に移転しています。

 初め松林の中にあった湾鉄の本社は、「昭和十一年、西戸崎から糟屋郡香椎村(現福岡市東区香椎)に二階建てを新築して移転しました。当時、村で一番大きい建て物と村中の話題になったものです。同村はのち町になり、さらに福岡市に合併、この湾鉄本社社屋は市の香椎連絡所になっていましたが、いまでは取り壊され、跡地は香椎公民館と駐車場になっています」と前記村上さんの話。
 ついでに言えば現西鉄宮地岳線も元湾鉄の線。五社合併で西鉄が生まれたとき、社章は全部新しい西鉄の社章に取り替えられたが、村上さんたち旧湾鉄社員たちが、「一つだけは湾鉄の社章を残して……」と会社に申し入れ、現宮地岳線香椎駅そばの香椎変電所の建物の外壁に付いている社章だけは取り替えから除外された。いまも宮地岳線香椎駅ホームから変電所の壁に、「博」を丸く図案化した湾鉄の社章が見える。ここでは湾鉄と書きながら会社が「博」を図案化というのに不審を抱かれそうだが、会社自身は「博鉄」と略し、当時の新聞の見出しも略して「博鉄」。湾鉄というのはのちの通称。
(弓削信夫 福岡鉄道風土記 葦書房)

 その後、1937(昭和12)年5月に北九州延伸用地を譲渡されて延伸計画熱が再燃していますが、1944(昭和19)年に申請書が返付されたそうです(吉富実 見果てぬ夢―西日本鉄道の幻の新線計画 鉄道ピクトリアルNo.847 2011.4・関連)。
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