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徳之島鉄道
 福工大前駅(旧筑前新宮駅)~古賀駅間に2009年春に新設される駅(関連関連)の名前が「ししぶ駅」に決まったようです。

新駅周辺は鹿部土地区画整理事業に基づいて地域整備を進めていますが、「鹿部」という名称は新駅周辺を包括する行政区名として古くから地元の方に広く認知されていること、また、地元以外のお客さまにもわかりやすく、ひらがなで「ししぶ」駅としました。
(参照)

 その他にも、古賀市議会の特別委員会が西鉄バス路線一挙廃止申し入れ(関連関連関連)を受けて市によるバス単独運行を提言したとの報道がありましたが、奴間市議は入院中ですし、会議録の閲覧はまだできない状態です。

 てか、西鉄はまだ廃止届を出していないということです。やる気あるのでしょうか?
 あ、やる気があるから出さないのか。ややこしい。


 そういうわけですので、今回は古い話から。

徳之島のさとうきび畑に線路

 僕が徳之島にいた頃、僕の職場は中心集落の亀津から車で30分ほどの海沿いにありました。
 ある日のこと、数人の子どもが僕に教えてくれました。
 「山の中に線路があったよ。」と。

 南大東島のシュガートレイン(参照)みたいに、さとうきびを運ぶ鉄道でもできるのか。あるいはそういった鉄道があったのか。
 なんとなく夢のある話です。

 島の事情通に言わせると、島の反対側にある三京(みきょう)地区に作られている大規模なダムが実は核燃料の処理場予定地(参照参照参照参照参照)で、地元を黙らせるために立派な道路も作っている(島で初めてのトンネルも作った)。
 あれ絡みなら鉄道だって作るだろうとのこと。

鉄道ではなかった

 で、僕は現場を見に行きました。
 海沿いに延びる集落の裏は台地になっていて、さとうきびなどの畑が広がっています。
 集落から登っていった道を横切るように、レールはありました。

 そのレールは、橋をかける際に橋げたを移動させるためのレールでした。
 どうやら、海岸線と平行した新しい農道を作る工事の一環だったようです。

しかし実際トロッコはあった

 しかし、地元出身者によると、昔実際にトロッコが引かれてたことがあるようです。
 それは、陸軍航空隊徳之島基地(参照)建設のため。
 この徳之島基地は、特攻隊基地として知られる知覧から沖縄に向かう際の補給基地として使用された(参照)ようです。
 場所は、現在の徳之島空港から少し山手に入った場所。僕がよく行っていた銭湯(?)悠湯館の近くらしいです。

 ちなみに計画倒れだったようですが、もう少し南の瀬滝に徳之島南飛行場も計画されていた(参照)ようです。
 ここも一度行った銭湯(?)徳之島健康ランドに近いのですが・・・。


 この飛行場は、昭和19年4月15日に北谷村、西原村、浦添村、伊江村、下地村、大浜村の飛行場建設と共に発令され、5月20日に建設開始したものだそうです(参照)。

 地元の方によると、この現場と港の間にトロッコの線路が敷かれ、島の住民が建設に駆り出されたのだそうです。

 その人は北東部の山(さん)集落と工事現場との間に敷かれたと話していましたが、距離がありすぎるので西部の平土野港あたりとつないでいたのかもしれません。

 地元の人だけでなく、奄美市笠利町から徴用されたとの証言もあります(参照)ので、かなり大掛かりな工事だったと思われます。

同年10月8日、航空本部熊本支所長一行12人が徳之島に来島し、村長の案内で浅間集落と瀬滝集落一帯を視察した。12日には浅間集落一帯の測量が開始され、続いて用地買収が開始された。
 用地買収は土地は種別に応じて21円から72円、家屋の転居料は倉や牛馬も含めて5千円から3、4百円が支払われた。軍の言うことが絶対だった当時のこと、値上げなどを要望すれば国家総動員法で没収すると公言され、実際には有無を言わせないものだったようだ。沖縄県の飛行場建設の例から考え補償料も現金渡しは僅かで大部分は貯金させられたかもしれない。
 11月末には航空本部の要員が食糧と資材を持ち来島したがその人数は僅かだった。当初から軍は工事の労働力に徳之島から動員した住民を充当し、軍自身は工事の指揮・監督を行う考えだった。
 11月28日に徳之島4ケ町村長と青年学校長が集められ、合計2280人もの人夫が割り当てられた。そのため各町村では小学校卒業の男女から満60才までの住民を動員してこれに対応したという。
 だがそれでも人員は足りず、さらに大島本島から650人、沖永良部島と与論島から350人がさらに動員された。沖永良部島の知名町青年学校勤労報用国隊は、翌44年2月に徳之島に出動しているが(註2)、おそらく飛行場建設のためだろう。
 こうした中で与論島から動員された住民33人を乗せた開門丸(20トン)が、天城村松原港を出港動員後、B24爆撃機の爆撃を受けて沈没した。26名が死亡し、暁部隊の下士官を含めて7名が徳之島に泳ぎ着いたという。この出来事を45年8月7日とする説(註3)と2月28日とする説(註4)があるが、前後の状況から考えて2月28日であろう。(死者についても註4は34名とする。)
 このように集められた住民の労働条件はどうだったのだろうか。沖永良部島の和泊町からは、44年2月に第1陣200人が徳之島へ向かった。彼らは「ミノ、カサ、地下足袋、寝具用のゴザ、布団、弁当箱、着替え持参で」(註5)出かけた。作業は朝6時から始まり、ほとんど全てが人力であった。仕事は「規則正しく作業も難しい事はなく誰にでも出来」(註6)るものだったが、「兵隊のきびしい見守る中でのきびしい作業」(註7)だった。
 航空本部が用意したは数十条の「トロ」用レール、三十数台のトロ、百余台のリヤカ-に中古トラック5台に過ぎず、その他の道具は住民持参のものに依存していた。当然作業は人海戦術となった。動員は1ケ月か2ケ月交替だったが、中には何回も動員された人もいたようだ。(註8)
 作業中住民が最も苦しんだのは食料不足だった。食事は昼には黒くなる芋を混ぜたご飯(註9)「ガブガブ」のおかゆ1杯(註10)だったので、食糧を家から多量に持ってきたり(註11)、集落へ出て汁丼を買って食べたりしていた。(註12)それでも食糧は足らず10日、20日と日が経つに従い体力が衰え(註13)、帰って来る時には皆やせていたという。(註14)
 こうして建設されたのが徳之島北飛行場(浅間飛行場)である。飛行場が建設されたのは浅間部落の東側約80ヘクタールの地域である。飛行場は同年5月にほぼ完成し、6月から飛行機の離着陸を開始したという。沖永良部島知名町の山下中秋氏は2月と6月に飛行場建設に動員されたが、6月に来た時には整地が出来て飛行機が飛べるようになっていたと回想しており、これを裏付けている。(註15)
 だがこの時点で飛行場は全てが完成していたわけではない。9月から10月にかけて沖縄守備を担当する陸軍第32軍は、地上部隊の主力を動員して南西諸島島各地の飛行場の急速設定を行っている。詳細は不明だが徳之島でも行われたようだ。(註16)飛行場の最終的な完成はこの時点に求められるようだ。
 また徳之島飛行場の建設には朝鮮人も動員されている。1944年8月4日に奄美大島の古仁屋に入港した特設水上勤務第一○二中隊(隊長は田中良男中尉、隊員数は七三六名)は朝鮮人で編成された苦力部隊であるが、その第2小隊と第3小隊は8月21日に古仁屋から徳之島平土野港に入港し、独立混成第六四旅団の指揮下に入った。徳之島では船舶からの揚陸作業の他、飛行場や砲兵陣地の構築作業に従事した。(註17)
 飛行場建設工事に動員された水勤隊は、天城小学校の教室に宿泊した。隊員は作業服から帽子、履物まで全て同じで、飛行場工事や学校周辺に深い壕を掘る工事を行っていた。(註18)彼等はよく食事の分配が理由でケンカをしていたという。(註19)飛行場工事に徴用された住民でも食事は不足していたから、仕事が厳しい割には食事が少なかったのだろうか。ある日は校門のすぐ内側の木に、軍夫が後ろ手に縛り付けられ、食事も与えられずに終日つながれていた。また子供の中には軍夫に悪口を言って相手を怒らせ、怖い目にあった子もいたという。(註20)

(註1)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄・台湾硫黄島方面 陸軍航空作戦』(朝雲新聞社 1
970) P24
(註2)町誌編纂委員会編『知名町誌 歴史編』(知名町役場 1982) P406
(註3)天城町役場編『天城町誌』(天城村役場 1978) P864
(註4)大内森義『ゆんぬ』(北風書房 1982) P146
(註5)和泊町企画観光課編『和泊町戦争体験記』(和泊町 1984) P130
(註6)前掲註5 P74
(註7)前掲註5 P221
(註8)前掲註5 P109~110
(註9)前掲註5 P110
(註10)前掲註5 P130
(註11)前掲註5 P74
(註12)前掲註5 P131
(註13)前掲註5 P221
(註14)前掲註5 P74
(註15)前掲註5 P110
(註16)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄方面陸軍作戦(朝雲新聞社 1968) P1

(註17)防衛研究所図書館所蔵『船舶部隊史実資料(3)』
(註18)『非戦・77人の証言』(がんばれ社民党・支える鹿児島の会 2005) P209
(註19)寿富一郎「防衛隊と教師と子供たち」(『徳之島郷土研究会会報 第20号』(徳之島郷土研究会 1994)所収) P6
(註20)前掲註18 P209~210
(徳之島飛行場の沖縄戦(1)-飛行場の建設- - 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦 - Yahoo!ブログ)

 ちなみにこの飛行場には米軍の捕虜もいたそうで、米軍が撮影したフィルムも残っているそうです(参照)。
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