湾鉄調査部
興味ある事を興味あるままに調査しています
広告


プロフィール

therapie

Author:therapie
 元々は鉄道ブログです。
 と言いつつ、福岡市北郊にある新宮、古賀、福津の情報をメインに書いていました。
 筆者転居のため、最近は福岡市内の情報をメインに書いています。
 自分の興味が向いたものを、自分勝手に調査しています。
 今のところ、基本的に毎週日曜日に更新しています。
 お問い合わせはメールフォームからお願いします。



最近の記事



カテゴリ



最近のコメント



最近のトラックバック



ブログ内検索



月別アーカイブ



RSSフィード



リンク


ブログパーツ類
あわせて読みたいブログパーツ

にほんブログ村 地域生活ブログ 福岡情報へ
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村 鉄道ブログへ

ジオターゲティング


検索






Join the Blue Ribbon Online Free Speech Campaign


田渕遺跡はどうなったの?
 9月の話ですが、文化庁が「宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産の国内候補として国連教育科学文化機関(UNESCO)の暫定リストに追加したのだそうです(参照)。

 近所の話なので嬉しいですが、そう言や古賀市内にも騒がれている遺跡があったなぁ。

田渕遺跡とは?

 2000年ごろ、古賀市では田渕遺跡という遺跡が話題になっていたようです。
 田渕遺跡とは、次のような遺跡だとされています。

6世紀から7世紀にかけて造営された大型建物群、役所的性格の建物であることから、『日本書紀』に記載される「糟屋屯倉」の候補地の一つ。
また、12、13世紀には、舶来品の青磁・白磁が大量に出土することから、花鴨川河口を含め、古賀における交流・貿易の拠点であったと考えられる。
(参照)


発見当時粕屋屯倉跡かと話題に

 田渕遺跡は1999年ごろに見つかったのだそうで、当時は磐井の乱後に磐井の息子が大和政権に献上したという「粕屋屯倉(みやけ)」跡ではないかと話題になったようです。

 ■「粕屋屯倉」跡とみられる建物群跡見つかる

 1999年に古賀市で、磐井の乱に関係する「粕屋屯倉(みやけ)」跡とみられる6世紀後半の大型建物群跡が発見された。田渕遺跡だ。日本書紀には、磐井の敗死後、その子・葛子が「粕屋屯倉」を継体王朝に献上して乱の終息をはかったと記されている。玄界灘沿いの浦津(港)だったのではないかと推定されていたが、田渕遺跡は「花津留浦」の記録が残る、今の花鶴川河口近くに位置している。
(参照)

 2000年7月には市の教育委員会による調査が行われたようで、各紙が取り上げています。

2000年7月10日(月)
福岡県
古賀市・田渕遺跡(たぶちいせき)で糟屋の屯倉?4重の柵に囲まれた大型建物。福岡市・比恵遺跡(ひえいせき)の「那津官家」と配地が一致。古賀市教育委員会の調査。[読売新聞]
6世紀後半。古賀市教育委員会7/10発表。[時事通信]
(参照)



糟屋屯倉?大型の建物遺構 田渕遺跡 【asahi.com 2000.7.11】

「糟屋屯倉」とみられる遺構。中央に左右に連なる穴が四重柵列。その上が大型建物の柱の跡/福岡県古賀市教委提供

大和朝廷との戦いに敗れた九州北部の豪族(磐井の息子葛子)が、死罪を恐れて献上したと日本書紀に書かれている「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」跡とみられる遺構を福岡県古賀市鹿部の田渕遺跡で確認した、と同市教委が十日発表した。市教委は「木簡などの文字史料を見つけ、裏づけを急ぎたい」としている。

市教委によると、遺構は広場を中心に南東側に大型の建物(七十二平方メートル)、南西側に別の建物(十八平方メートル)があり、その間を南北に四重の柵(さく)列(長さ十四メートル)が走っている。建物が大型で囲郭構造であることから、律令制以前の国の役所である官衙(かんが)的な場所であると市教委は推定している。出土した土器などから、遺構は古墳時代後期(六世紀後半)とみられ、同時期、筑前国にあった「糟屋屯倉」の可能性が非常に高いとしている。
「屯倉」は朝廷直轄領から収穫した稲の貯蔵庫の意味。日本書紀は、五二七~五二八年の戦いの後、筑紫君磐井(いわい)の子である葛子(くすこ)が、大和朝廷に「糟屋屯倉」を献上した、と記している。ここを足がかりにして、大和朝廷が九州に勢力を広げたというのが一つの解釈になっている。(7/11)
(参照)



2000年7月11日(火)
福岡県
古賀市・田渕遺跡(たぶちいせき)の大型建物に立て直し痕跡なく,糟屋屯倉(かすやのみやけ:528)から那津官家(536)への移転記事に合致。[読売新聞]
▼田渕遺跡が6世紀後半という情報[西日本新聞|時事通信|朝日新聞|産経新聞]と矛盾。読売は昨日の報道以来,遺構が6世紀後半であることを伏せている。
▼田渕遺跡関連記事→2000年7月10日
(参照)

 おや、なにやら怪しい記述がありましたね(^_^;)

 8月には現地説明会も行われたようです。

2000年8月1日(火)
福岡県
糟屋屯倉(かすやのみやけ)とも推定される古賀市・田渕遺跡(たぶちいせき)について,小田富士雄・福岡大学教授が7/31遺跡の本格調査を中村隆象・古賀市長に要請。市長も前向きな態度。「粕屋の屯倉と特定されれば、史跡指定により、保存に弾みがつくことになると思う」の発言も。8/5現地説明会。[読売新聞]
(参照)



田渕遺跡(たぶちいせき)―日本書紀所載の「糟屋屯倉」(かすやのみやけ)か
2000年8月5日(土)9:30/福岡県古賀市~古賀市教育委員会(18/Sep/2000)
(参照)



★田渕遺跡現地見学会のお知らせ
田渕遺跡は古賀市の土地区画整理事業に伴い市教委が発掘。規模や建物の配置から、大和朝廷が筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱(527~8年)後に直轄地とした「粕屋の屯倉」の可能性が高いとされている。
日 時:8月5日(土)午前10時から午後3時まで ※雨天の場合6日に順延。問い合わせ:古賀市教委社会教育課(電話092-942-1111、内線421)。
※マイカーで見学に訪れる場合は古賀市役所の駐車場を開放、現地まで送迎車を運行する。
★古賀・田渕遺跡 市長に本格調査要請
日本書紀に記された「粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)」と見られる遺構が確認された古賀市鹿部の田渕遺跡について、福岡大の小田富士雄教授(考古学)が31日、同市の中村隆象市長に周辺部も含めた遺跡の本格調査を要請した。
(参照)


市議会でも話題に

 結構話題になったからか、市議会でこのことについての質問もされました。

 まずは2001年3月.21日に行われた平成13年第1回定例会第3日の納冨育代市議の

 昨年の9月議会では、鹿部山のふもとで発掘された田渕遺跡から広がる夢とロマンを語りながら保存のための用地買収と、当地で開発を進めようとしている鹿部土地区画整理組合との協議を求めました。田渕遺跡の発掘調査費は新年度予算にも計上されておりますが、今後の調査の見通しと区画整理組合とのその後の協議について教えてください。
(参照)

という質問に対して荒木隆教育長はこう答えています。

 4点目の田渕遺跡の保存についてでございます。
 昨年の鹿部区画整理事業の発掘調査で見つかりました田渕遺跡は、報道機関への発表8月5日の一般公開以降全国的な話題となり、その後もさまざまな書籍で紹介されるなど今もその動向は注目されております。現在は一時保存のために埋め戻し処理を行っており、平成13年度において周辺区域に調査範囲を広げ、糟屋の屯倉であることを前提にした規模と性格の全容解明に向け、鹿部土地区画整理組合の御理解を得て調査を実施することにいたしております。
 保存につきましては、平成13年度で実施予定の同遺跡東側区域の田渕2次地区及び西側区域の高盛地区、北側区域の木ノ下地区の調査結果によって一定の方向が出せるのではないかと考えております。そのためにも国や県、鹿部土地区画整理組合と十分協議を重ね、この期間の短縮について努力をしてまいりたいと思っております。
(参照)

 2000年9月議会でも質問してるんですね。
 まあいいです。探すのが面倒ですから(^_^;)

 次に見つかったのが、2002年12月19日に行われた平成14年第4回定例会第3日における矢野順治市議の質問です。

 それから、古賀市が他地区に誇る遺跡といえば、話題になっております糟屋屯倉が非常によく知られておりますが、この貴重な文化財に匹敵する遺跡の保存について現在どうなっているのか、また、今後どのような扱いをされるのか、これは教育長でもよろしゅうございますが、どちらでも結構です。
(参照)

 これに荒木教育長が答えます。

 これは、たびたび議会で御質問いただき御提言いただいておりますが、田渕遺跡につきましては一応土地を確保したいということで、土地の、市の方で遺跡の部分について確保するところまではきておりますが、その後これをどういうふうに整備し、あるいは公園等として残すかということについては、県の文化財保護課等とも相談しながら、市民の方に、ぜひ貴重な遺跡として誇れるような形でこれを保存したいというふうに思っておりまして。
 これは、ちょうど区画整理の場所でもありますので、そういった関係の機関とも相談しながら今進めているところでございます。整備を進めて、どういうふうにするかということについて協議をしたいというふうに思っております。
(参照)

 矢野市議が再度尋ねます。

 これは、国の方の指定の見通しはいかがでしょうか。
(参照)

 荒木教育長が答えます。

 県の文化財指定の見通しは十分これはあるわけですが、国の指定ということになりますと、いろいろ問い合わせたり調べたりいたしますと、糟屋屯倉であるという、ほぼ確定することがひとつ必要でありますし。
 それから、全区域といいますか、広がりがどういった形なのかということを調べる必要があります。これがちょっと、現在のところ住宅が建っていたりというようなことでできないだろうと思っておりますので、国の指定については、今のところ可能性がちょっと低くなったというふうには考えております。
 御存じのとおり、那津宮家につきましても、これは20年でしたか、かかって全体の範囲というのを少しずつ確定していったというふうな経緯もありますし、将来的にはそういうことができると思いますが、今の段階で国の指定をとれるというのは、ちょっと難しい状況にはあります。
(参照)

 用地は確保できていて、後は全体像の調査とどう整備するだけだということなんですがねぇ。

 でも、「平成20年度 古賀市教育行政の目標と主要施策」にはこうあります。

1 芸術・文化及び文化財保護事業の推進
(7)鹿部田渕遺跡を歴史公園として保存整備するための用地取得
(参照)

 いや、用地取得できてないようなんですけど・・・。

 で、先日現地(参照参照)を見てきました。
 てか、現地を探しに行きました。

 どこだかよく分かりませんでした。

古代

古墳時代は磐井の乱によって筑紫国造磐井の息子によって継体に献上された糟屋の屯倉であったという説もある。理由は、鹿部の田渕遺跡によるが宗像郡であった当地が果たして糟屋とも呼ばれていたかが不透明なことから疑問視する声が大きい。

飛鳥時代になると、大化の改新によって神郡であった宗像郡に属していた[要出典]。また、大宰府への官道が通じ、古賀市域には宗像郡席打駅が置かれていた。所属していた郡が宗像郡から糟屋郡に変わったのは、宗像神郡は宗像大社の神領で侵してはいけないため、皇室や藤原氏などが現在の福津市などとともに糟屋郡に無理矢理編入した名残りであると思われる。因みに福津市は室町時代から戦国時代にかけて宗像氏が所領回復した。そのころの古賀のほとんどが立花氏が領有していた。旧青柳村には、長崎街道の脇街道である 唐津街道青柳宿が置かれていた。筑前21宿の一つに数えられている。
(参照)

 この記述がどれほど信頼性があるか分かりませんが、どうも粕屋屯倉ではないのではないかと言われてきているので熱が冷めたという感じのようですね。

 てか、実際どこなんだろ?
 てか、実際どうなるんだろ?

【2008年12月25日追加】

 その後も「宗像・沖ノ島と関連遺産群」は好調で、24日には谷井博美宗像市長と池浦順文福津市長が麻生渡福岡県知事と会談。関係自治体と地元住民、経済界、専門家などによる世界遺産推進会議を設置することが決まったようです(参照)。
 その後田渕遺跡の場所らしきところは発見しましたが、どうもやはり熱が冷めたようですね。

【2012年4月12日追加】

 その後、2010年11月に遺跡は歴史公園化されています(関連記事)。
関連記事
スポンサーサイト

にほんブログ村 地域生活ブログ 福岡情報へ にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 鉄道ブログへ
Keyword : 古賀市 福津市 歴史

テーマ:福岡 - ジャンル:地域情報


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://wantetsu.blog61.fc2.com/tb.php/638-c46f746d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)



当ブログはリンクフリーです。
ただし、匿名掲示板からのリンクは管理者であろうとも禁止します。
不適当だと判断したコメント・トラックバックは掲載しません。
情報の正確性には常に留意しておりますが、その検証能力には限りがあります。
このサイトにより生じたいかなる損害においても責任は負いかねますのでご了承ください。