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元々鉄道ブログですが、福岡県古賀市、新宮町、福津市の情報に移行、その後福岡市近郊の情報に寄り道した後、心理学と障害者福祉に関心を移しています。
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古賀市は元々宗像郡?
 Wikipediaにこのような記述がありました。

 飛鳥時代に成立した宗像郡は、現在の宗像市から古賀市・宮若市の一部・鞍手郡の一部・遠賀郡の一部・糟屋郡の一部を範囲とする。また、古代の遠賀郡(御牧郡)は宗像郡から分郡として支配されていた。分郡地域は現在の遠賀郡・中間市・北九州市若松区・八幡西区・八幡東区・戸畑区も支配地域であり、中心地域は現在の中間市域の宗像郷であった。
(宗像郡 - Wikipedia)

 福岡市と北九州市の間にある自治体の多くを合併させ、最盛時の宗像郡を再現した自治体を作ろうというのが「大宗像構想」です。

 まあ、そういった名前の構想があるのかどうか知りませんが、似たような妄想をたまに聞きます。
 というか、「支配」というのはちょっと語弊があると思う(^_^;)


<古賀は元は宗像郡?>

 Wikipediaの新宮町の項には、以下のような記述があります。

古代は、宗像郡席内郷に属していた。
奈良・平安時代辺りに糟屋郡に郡代えされている。
戦国時代は立花氏の領土であった。
(新宮町 - Wikipedia)

 これだけ読むと、新宮や古賀は昔宗像郡だったんだなと思いますが、現在の古賀市地域が元々宗像郡であったかどうかは古賀町史を読んだ限りではよく分からないようです。
 931年から937年に成立した和名抄の宗像郡の項に「席内」がある(参照参照)というのが宗像郡所属説の根拠らしいのですが。

 古賀町史を見てみると、どうもその後糟屋北部と宗像南部の一部は席内院と呼ばれていたようで、郡で呼ばれることがあまりなかったようです。
 で、よく分からないうちに糟屋郡化されたようです。

 平安末期~南北朝期に見える院名。はじめ宗像郡か。のち粕屋郡のうち。
 永久元年11月8日の日付をもつ銅経筒に「筑前国席内院 願主僧良意 金主吉野常元」と見える(経塚遺文)。
 南北朝期になって,観応3年2月の安楽寺領注進目録には「席内院清里名」が見える(西高辻文書/大日料6-17)。
 康暦2年10月25日,広井(薦野)刑部丞に宛てた九州探題今川貞世書下には「天満宮領筑前国席内院重久名領家年貢事」とあり,薦野氏の年貢押領を停止している。
 同年11月3日にも今川貞世は新開因幡権守に令して,重久名の領家年貢に対する薦野刑部丞・根田美(米多比)以下の輩の押領を停止させている(太宰府天満宮文書/天満宮史料12)。
 その後,正平17年11月25日付安富泰重軍忠状に「筵打御発向」の記事がある(深江文書/大日料6-24)。
 また,康永4年には香椎社雑掌が「当社領筑前国席内・橘口両郷地頭大友近江右近将監宗匡」の神用米対捍を訴えているが(熊本市某書店待買文書/南北朝遺2116),天満宮領席内院と香椎宮領席内郷の関係は未詳。
 下って戦国期の年欠(天正12年か)7月10日付立花道雪書状によれば,道雪は薦野増時に対して,大友義統の出陣延引を知らせ,さらに「西郷,筵内辺之衆」と申し合わせて油断なく待機するよう要請している(薦野家譜/大日料11-7)。
 薦野増時は,先の今川貞世書下に見える薦野氏の子孫と推定され,この時期には大友方の立花城督立花道雪に属していたことが知られる。現筵内集落の東に戦国期の古戦場団の原があり,南には豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に茶屋を置いたという茶屋山がある。東北には鷺城跡がある(続風土記)。
 天正年間の「指出前之帳」には「筵内村」と見え,田86町余・分米812石余,畠42町余・分大豆360石余。
(席内院(中世))


<郡の範囲は流動的>

 そもそも昔の郡の範囲は結構変化が激しかったようです。

 和名抄や延喜式の時代には、「金印出土の地」志賀島は粕屋郡に属していた。それが江戸時代には那珂郡の一部となり、明治十三年に再び粕屋郡に属するようになる。
 これと逆の場合が箱崎で、箱崎は那珂郡の内であったのが、近世には粕屋郡に入っている。昔は多々良湾が深く入りこんでいて箱崎は粕屋郡と内海でへだてられていた。それで那珂郡に属していたが、須恵川、宇美川が運ぶ土砂の堆たい積と海岸線の後退によって地続きになり、粕屋郡の内に入ったものらしい。
(『広報すえまち』連載のファイル - 《町史のひとこま》第10回 郡名「粕屋」について)

 現在では宗像郡の福間も、糟屋郡になっていたことがあるようです。

 志賀島は古代には糟屋郡、江戸時代は那珂郡、明治になってまた糟屋郡に入ります。時代によって糟屋郡の範囲は変わります。宇美町の四王寺は戦国時代には御笠郡で、黒田長政の慶長検地によって、糟屋郡に所属替えが行われましたし、今は宗像郡に入っている福間も、中世には福万ふくま庄という荘園として名前が見えますが、そのころは糟屋郡でした。
(『広報すえまち』連載のファイル - 《まちの史跡めぐり》第37回 和名抄に見える糟屋郡の郷名)

 ちなみに、宗像郡というと歴史を感じさせますが、糟屋郡も面白歴史エピソードを持っているようです。

 京都妙心寺の梵鐘(銅)は日本最古の銘をもつ鐘で国宝に指定されている。これが奈良時代の粕屋郡長による鋳ちゅう造である。太宰府観世音寺の梵鐘も国宝で有名なものだが、実は妙心寺鐘と「姉妹」の鐘、つまり同じ鋳型いがたによる製作である。いずれも粕屋郡で鋳造され、妙心寺鐘はいつの時代にか京都へ運ばれたものらしい。
(『広報すえまち』連載のファイル - 《町史のひとこま》第10回 郡名「粕屋」について)


<郡の制度も流動的>

 そもそも郡という行政区画自体が機能したのも短い時代だとする記述もありました。
 郡の源流は、大化の改新後に導入された評というものだそうです。

評(こおり、ひょう)とは、645年の乙巳の変後の朝廷が次々と打ち出したいわゆる「大化の改新」の新政策の一つ。各地に「評」という地方行政組織をつくり、地方豪族勢力を取り込み、既存の部民を廃し、公民制を全国に施行した。大化5年(649年)に実施に移されたと考えられる。
(評 - Wikipedia)


九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国穎娃郡(えいぐん、『続日本紀』文武4年六月庚辰条)か、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(くすぐん、大宰府政庁跡出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(こゆぐん、藤原京跡出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料に現れない郡レベルの行政単位が記されたものも見つかっている。
(評 - Wikipedia)

 で、郡は大宝律令の時代に成立したそうで、当時は重要なものだったようです。

古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に郡(こおり)が成立したと記すが、当時は実際には評(こおり)と書いていた。大宝律令の成立の時に郡となり、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡が在ったとされる。単位系では、郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郡は、郷の数によって大・上・中・下・小の五等級に分かれていた。 南伊勢の度会評は「神郡」というかたちで、半ば自律的な行政単位であった。
(郡 - Wikipedia)

 地域の実力者を中央集権機構に組み入れる制度だったって事でしょうか。

 しかし、10世紀には国衙(国司の役所)と荘園の挟撃に遭い、郡は有名無実化していきます。

しかし10世紀には、筆頭国司である受領の権力強化などにより、郡の機能は低下し始めた。11世紀には、荘園が一円領域化して国衙の支配から自立し、郡の管轄からも外れて行った。国衙の側も残された公領を再編成し、下部に郷を組織した郡から国衙に直結した、郡、郷、保、院、条、別名などの並立体制となった。これに伴い、旧来の在地豪族の系譜を引く郡司層は急速に没落した。没落した郡司層の多くが国衙に近侍し、在庁官人となった。在庁官人には他に受領が引き連れてきた実務官僚などが加わり、新たに再編された郡司、郷司、保司などの管理者として任命された。また、受領自体が任期中に私領を獲得したり、在地豪族に入婿したりして土着化し、子弟が在庁官人化するケースも見られる。やがてこれら在庁官人は武士化していった。
(郡 - Wikipedia)

 鎌倉時代以降は、一応領域として存在しつつも、色々変化があったようです。

鎌倉時代になると、国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命され、武士たちの基礎的な領地の単位となった。

戦国時代には戦国大名らの地域権力が領国拡大を行い、本国・分国の領域支配の一環として、支配領域を古代以来の国郡制とは異なる独自の支配領域区分である「郡」単位で分割し、各郡ごとに郡代を配置した。

相模国後北条氏においては郡単位で公事賦課を行った郡代支配を展開し、やがてこれは郡代支配を引き継いだ支城制へと完成していくことが指摘される。一方で、戦国大名の領域支配は本国・分国の歴史的経緯や領国化時期の差異、自立的な国衆の存在などにより一様ではなく多様性があり、必ずしも郡代・支城制支配により均一な支配でなかった点も指摘されている[1]。

江戸時代の幕藩体制においても、各藩と江戸幕府は郡などの歴史的地域区分を地方統治の単位として用いた地方ごとに独自の地域区分が存在し、近世期にも全国均一の支配は確立していない。
(郡 - Wikipedia)

 福岡藩でも宝暦12年(1762年からは表糟屋郡・裏糟屋郡・宗像郡を同じ奉行(三郡奉行)が管轄した(参照)そうで、中村学園図書館が公開している貝原益軒アーカイブの筑前国続風土記に当時の様子が書かれています(参照参照参照参照参照)。
 ぶっちゃけ、この頃は、粕屋・宗像は同じ領域扱いだったって事なんでしょうか。
 範囲広すぎやろ(^_^;)

 で、明治になって、行政区画としての郡が一度なくなって後に復活したようです。
 ちなみに当時の糟屋郡役所は箱崎に、宗像郡役所は東郷に置かれたようです。

明治初年の郡は地理的区分に留まっていたが、1878年の郡区町村編制法で行政区画としての郡が復活した。同法は、府県の下に郡を置いて、郡長を任命することを定めた。この時に、大きな郡を分割したり、小さな郡同士で合併したりした。この制度下の郡は自治体ではなく、郡長以下は中央政府の官僚であった。郡の役人が勤務する役所は、郡役所といった。

1890年に郡制が公布された。郡は府県と町村の中間の地方公共団体として規定され、郡会が置かれ、郡会議員が選挙された。1896年に沖縄県に郡が編成された。1915年には当時外地であった樺太でも内地に準じた郡の編成が行われているが、郡会は設けられず自治体としての性格は持たなかった。

1921年には郡制廃止法が公布されて1923年に郡会が廃止され、また、1926年に郡長と郡役所が廃止されると、郡は再び単なる地理的区分になった。戦時中の1942年には、内務省告示によって、北海道以外の全ての府県に、府県の出先機関として地方事務所が設置された。地方事務所は、原則として郡を単位にして設置されていたため、事実上、郡役所が復活した形となった。
(郡 - Wikipedia)

 そして現在では、郡は単なる地域の名前に過ぎません。

戦後の1947年施行の地方自治法では、地方事務所・支庁などの都道府県の出先機関は、各都道府県が条例によって設置・廃止する事ができるようになり、地方事務所を廃止した県や、区割を変更した県、「振興局」や「県民局」などと称した出先機関を設置した県もある。
現在の郡は、住所表記や、広域連合体(広域行政圏)の範囲、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まる。郡の廃置分合は、都道府県知事が権限を持ち、都道府県の議会の議決を経て定め、総務大臣に届け出ることとなっている(地方自治法第259条)。
明治以降の郡に、市や区は属さない。そのため、町村に市制が施行されると、その範囲は郡域から除かれる。初めのうち市の範囲は純粋に都市部に限られており、市部と郡部は市街化された地域とそうでない地域に対応していた。
しかし後に合併によって市町村の面積が広がると、市も広い農山村部を抱え込むようになり、郡との区別の意義は薄れた。こうなっても市が郡から除かれることに変わりなかったため、市の増加・拡大に伴い多くの郡が消滅した。平成の市町村合併では、合併でできた市が明治時代の郡に相当する面積を持つことも珍しくない。岐阜県郡上郡が郡上市に、宮城県栗原郡が栗原市にといった具合である。また宮城県登米市、滋賀県高島市など 明治時代の郡を完全に含む市が誕生した。
変遷を経た上でも、市域の除去を考慮しなければ奈良時代の名称と区域をほぼそのまま継承している郡が少なからずある。しかし、江戸時代までに再編や改称を経たところもあり、明治初期にはさらに多くの郡が変更を受けた。いわゆる平成の大合併の影響で、郡や郡に属する町村は激減の一途をたどっている。郡境を越えた合併により、岡山県加賀郡(2004年)、石川県鳳珠郡(2005年)、福井県三方上中郡(2005年)、北海道二海郡(2005年)、北海道日高郡(2006年)などの郡が稀に新設されているが、合併後の人口が市昇格条件に満たないための措置と考えられ、郡に属する町村の減少例の一つに過ぎない。
かつて群馬県には、「東村」が5村存在し、いずれも「あずまむら」もしくは「あづまむら」と読むため、所属の郡を付して呼称し区別する慣習があった。いわゆる昭和の大合併と平成の大合併を経た現在では、県内すべての「東村」は廃止され、県内において郡により区別する意義は極めて希薄となった。
現在の郡は、自治行政の面では公職選挙法上での区の編成単位に利用されている程度でこれ以外で郡の存在意義は薄い。逆に言えば、地理区分としての郡域は、市制が敷かれてもただちに無効となるものではない。この意味では、「横浜市は相模国鎌倉郡の一部と武蔵国久良岐郡、都筑郡及び橘樹郡の一部を市域としている」といった表現がなされている。
(郡 - Wikipedia)


<で、古賀は宗像郡だったのか>

 まあいろいろ見てみましたが、結局昔、古賀が宗像郡だった時代もあったんでしょうね(てきとう)。
 しかし、案外流動的なもんだったようです。
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